lose one's the way

イルカの荒い息遣いが実際に離れている距離よりもずっと耳の近くで聞こえる気がする。

本当に苦しいのは彼であるのに、オレは自分の体が苦しんでいるかのように感じる。

里の病院の権威である木の葉病院の一部屋で、彼はもんどりうって鎮静剤を打とうとする医者を拒む。いや、彼に拒む意思はない。ただ、苦しいだけだ。触れるもの全てが過剰な刺激となって彼を苛む。

手を焼く医者に協力して苦痛に悶絶するイルカを押さえ込むのはオレの役目だ。イルカが痛みに全力でオレを跳ね除けようとするのを押し込めて乱れた寝台に押し付ける。

むかし、安堵と快楽を与えたはずのオレの手はもう痛みしか彼に与えない。

「すぐ楽になるからね、ちょっと我慢してよ」

心の中でごめんね、と付け足す。

押さえつけられて動きが封じられた彼の腕を取って医者がすばやく鎮静剤を投与する。

注射針がイルカの腕から引き抜かれるのを確認してオレはイルカから離れた。しばらく悶えた後にイルカの容態は落ち着き、医者もオレもイルカも一息ついた。

暴れ疲れたのかイルカはまもなく眠りについた。

オレは医者と共にその部屋を出た。医者は難しい顔をして、

「この先難しくなってきましたよ」

と言った。言われなくてもそれは分かっていた。鎮静剤が効いて落ち着いている時間が随分と短くなった。薬が効かなくなるのもそう遠い未来の話ではない。

「覚悟をしてください」

オレは何も答えずにまたイルカの病室に戻った。

寝台のそばに立ってイルカの寝顔を見下ろす。額に汗が滲んでいた。戸棚にしまってある清潔なタオルを取り出してそれを拭うと、イルカは少し眉をしかめた。オレは慌てて手を離した。

起こしたかと心配したが目覚める様子はなく安心した。


彼がこんな目に合うのはオレのせいだ。


オレは里の内外問わず有名だった。里で生きた英雄と讃えられるその一方外では多くの恨みを買った。ひとりの時はよかった。その恨みはすべて自分に向かって放たれるからだ。自分に降りかかる火の粉なら簡単に払えた。

ところがオレにアキレス腱ができたとどこからか情報が漏れると恨みの矛先は変った。「写輪眼のカカシのオンナ」は写輪眼を恨む人間にとって格好の獲物だった。

それでも里内にいるときは良かった。里の警備は厳しくそう簡単に外から進入を許すことはない。

イルカが弱いわけではなかった。彼は二十そこそこで後進を育てる職務を任せられるくらいに有能な忍びだった。ただ、卑怯で巧妙な罠が張り巡らされていた。

イルカは任務にかこつけて誘き出され、写輪眼を付け狙う輩につかまった。脅迫文書を送りつけられて慌てて駆けつけるとイルカは苦しみ悶えていた。卑劣な術と薬でイルカの身体は触れるものを痛みとして感じ、全てを拒んだ。

術者を倒しても術は解けず、いったい何の薬を使ったのか、どんな治療を試みても身体は治らず、鎮静剤で一時的に痛みを散らすしかイルカを苦痛から救う術はなかった。

拷問の専門家に訊ねもしたが返答は芳しくなかった。

オレは堪らない。

イルカはオレのせいで受けなくても良い苦痛を受けている。それなのにオレはその痛みを代わってやることもできなければ、癒してやることもできない。苦しむ彼をまえに、オレは何もしてやることができない。

それどころかオレは痛みしか彼に与えてやることができないのだ。

それがどうしようもなく堪らない。

いいや、いいや。

ほんとうは一つだけ方法があるのだ。

彼を過剰な痛みから救ってやることが、ほんとうはできるのだ。

寝台の脇に折りたたみの椅子を広げると腰を下ろした。イルカの今は落ち着いた顔がその分だけ近くなった。青ざめた顔は憔悴して、以前は高い位置で結ばれていた彼の黒髪は乱れて枕に散っている。その黒髪を解くのが好きだった。

寝台に額をつけてぎりぎりまでイルカに近づく。安らかな息遣いがイルカの存在をオレの耳に伝える。それに少しだけ安心してまぶたを閉じた。

そう、ひとつだけ、ひとつだけ方法があるのだ。

それは専門分野だ。ひどく簡単なことだ。オレならイルカが苦悶の唸り声をあげる間なく苦しみから解放することができる。造作もないのだ。

このまま鎮静剤で痛みを散らし続けたとして、薬に限界が来たそのときにおそらくイルカは発狂する。絶えない痛みに正気を保っていられないだろう。

彼はこの拷問から解放されたいに違いない。

イルカを思うならそうしてやるべきだと、苦しむ彼を見るたびに思わずにはいられない。実際に何度も仕事道具に手がかかる。にもかかわらずそれを実行しないのは、ひとえに自分自身の身勝手のためだ。

いま、自分はイルカと出会う前にどう生きてきたのか不思議でたまらない。

目が覚めたらイルカのいない朝を、イルカと向き合わないで食べる夕食を、イルカと言葉を交わさず抱きしめることのない一日を、いったいどうやって過ごしてきたのだろう。彼を拷問から解放したあと、いったいどうして過ごせばいいのか。

イルカのいない残りの生など苦痛以外のなにものでもない、気が狂いそうだ。

考えるだけでも息が詰まるのに、実際に取り残されたらオレも死んでしまいそう。

苦しむイルカを見るのはつらい、だけど、彼のいない人生のほうがはるかにつらい。

そのためだけに彼を救うことができない。彼を苦しめ続けているのはオレだ。薬でごまかしてイルカを生に縛りつけ、彼は苦しみもがき、オレは少しでも楽な選択を惰性で続ける。

拷問を続けているのがオレだと知ったら、イルカはオレを恨むだろうか。憎むだろうか。


ざわりと枕がすれる音がして伏せていた顔を上げるとイルカのぼんやりとした視線と出会う。名を呼ぶとぼやけた視線が明瞭になり、イルカは「ああ、カカシさん」とため息のように呟いた。

「うん。水飲む?」

小さく頷き身体を起こそうとするイルカを押し留める。

「いいから横になってなさいよ」

それでも半身を起こしたイルカの口に吸いのみをあてがい傾けた。喉仏を上下させて水を飲み込むとイルかはまた横になった。

イルカはオレが吸いのみをサイドテーブルに置くのを見ていた。視線を返してイルカを見ると目が合った。何を考えているのかいないのか、イルカはただオレを見ていた。

その視線に引き寄せられるように近づく。手が勝手にイルカの顔に伸びた。イルカでいっぱいの視界の中にその手が見えて、慌てて拳に戒めた。触れてはいけない。触れたら穏やかなこの表情は歪むのだ。安定した気息は荒く乱れるのだ。

イルカの解放を選べないオレだ、せめて自分の余計な欲のために彼を痛めつけることはしたくない。

彼のはく落ち着いた息が口元をなでる。ああ、彼に触れたい。キスをしたい。

オレは彼の呼吸に触れるために息をひそめた。

しばらく至近距離で見つめあった。イルカはゆっくりと瞬きをすると、同じくらいゆっくりと口を開いた。

「しないんですか。キス」

言葉と一緒にはかれた息を充分に堪能して、それでももの足りなく思う自分を欲張りだと叱る。

彼を全てから解き放ってやりたい気持ちがある。自分のことを考えず彼のためだけに、そう思うことが確かにある。彼が苦しまないならそれでいいと思う気持ちも本当だ。

それでも、幸せなことなど何一つとなくて彼に憎まれて恨まれても、そうたとえ狂ったとしても、ただ生きているだけでいいと思う気持ちも本当なのだ。

「アナタの顔をうんと近くで見たいだけ」

オレはイルカの生も死も選ぶことができない。いたずらに彼を苦しめる。

ああ、ひとこと、彼が望みさえすれば。

たとえどちらを選んでもきっと彼が望むとおりにするのに。

イルカはどんな感情も覗かせない静かな顔で「そうですね。オレもです」とまぶたを閉じた。