簡単だが遠方任務が入った。任地は忍びの足でも三日はかかるところだった。
カカシは走った。木々が生い茂る林をひたすら走った。途中昼飯と小休憩二回以外はカカシの足は一日止まることがなかった。
夕暮れどき、そろそろ町に出て宿をとろうと林を抜ければ道の脇には田んぼが広がっていた。カカシは旅の商人を装ってあぜ道を歩いた。赤い太陽が最後の光を放ち沈んでゆくと長かったカカシの影も次第に夕闇に飲み込まれて沈んでいった。
人影はなく用水路を流れる水の音とそろそろとなき出した蛙の声とが聞こえた。時折途切れるそのなき声にふと愛を歌う男を思い出した。
あの男は今日も浮かれて歌っているのだろうか。
まぶたを伏せれば奥歯をかみ締めたにやけ顔が暗闇にも染まるのが浮かんだ。
耳を澄ませば蛙のなき声が幸せそうに歌う男の声に重なった。
一週間ほどでカカシは帰還した。
里に辿り着いたのは昼過ぎだったがすぐに報告書は出さずにカカシは一度家へ帰った。それから風呂を使って汚れを落とすと駆け通しだった足を休めるために寝台に転がった。ほどなくしてカカシは眠りに落ちた。
目が覚めたときには夕陽が山の合間に沈んで、名残の赤が雲をうっすらと染めたころだった。驚いて飛び起きると寝台から転がり出て慌てて着替えた。身なりを整えるのもそこそこに鉛筆一本引っつかんで家を飛び出した。
が、川沿いの道に着いたときにはすでにいつもの時間よりも遅くなっていたためか男と遭遇することは叶わなかった。誰ともすれ違わない道をひとり、肩を落としてカカシは歩いた。
受付に辿り着き事務の忍びに報告書を求められたとき、自分が握り締めているものが報告書でなく鉛筆であることに気付きカカシはいっそう肩を落とすのだった。
翌日は日が暮れる前に家を出た。のんびりと川の脇を歩きながら自分を笑った。
ここ数日気が付けばここで会う男のことばかり考えている。なぜこんなにも浮かれた男の歌が聴きたいのか自分でも不思議だった。不思議だったが不愉快ではなかった。それがまた不思議でカカシはおかしかった。
夕陽が赤く燃えるさままで美しく感じた。まるでいのちが燃える瞬間のように熱く力強く輝いて、歌う男の胸のうちをあらわすならおそらくこんな感じなのだろうと思わせた。
いつも男の歌が聞こえる時間になって、カカシは首をかしげた。どんなに耳を澄ませても川の流れる音しか聞こえなかったからだ。薄暗くなった辺りの気配を探れば気配がひとつ確かにあったが、それはあまりに弱々しく浮かれた男であるとは到底思えなかった。だからといってこんな時間にこの場所を通る他の人間もなくもないと頭の隅で思ったがありえないと思った。
訝しがりながらカカシは近づくのを待った。近づいてきた影にはぴんと天を向くしっぽがあった。それで確かにいつもの男であるとわかったが、様子がおかしかった。カカシが気に入った浮かれた歌はなく、歩く足にも力がこもらずいかにも悄然とした様子であった。その様子にカカシは内心動揺した。
すれ違う瞬間うかがった男は奥歯をかみ締めていた。しかし男がこらえようとしていたのは幸福のにやけ顔ではなく、もっと別の何か苦々しいものだった。
カカシは目を疑った。思わず振り返っても目に映るのは俯いた顔の変わりに空を見上げる髪の毛と少し丸められた黒い背中だった。
次の日もそのまた次の日も、男に歌はなかった。幾日かそれを繰り返すとカカシは男とすれ違うのが憂鬱になった。
だが時間をずらして行こうとか、道を変えようとは思わなかった。悄然としたようすを見るのは面白くなかったが男の姿を確認しないとそれはそれで気になって落ち着かなかった。
カカシとすれ違わなかったのと同じくらい黙っていた男の歌声がある日小さく聞こえた。水の唸る音にかき消されながら、しかしカカシの耳には確かに届いた。
最初とぎれとぎれにしか聞こえなかったのですぐには気が付かなかったが、それは以前の歌とは少し違った。同じ歌だったが言葉が違った。聞き間違いかと耳を凝らしたがカカシには男が何を言っているのか理解できなかった。カカシが任務で赴いたどの国の言葉でもなかった。
カカシの知らない国の言葉で歌う男は、やはり悄然としたようすで声には覇気がなかった。男は俯いて頭のしっぽを空に向けていた。
その日男はカカシに気付かずに、それまでだったら途切れる「あたしの願いは」の後を続けて知らない言葉で歌った。奥歯でかみ締めるにやけ顔も、苦々しい思いも、その男の表情にはなかった。ただ虚ろな目だけがあった。
カカシは立ち止まった。そのまま振り返ることもできずただ立ち尽くした。
次の日いつもの時間にカカシが男とすれ違うことはなかった。それでもカカシは待った。月が皓々と辺りを照らした。もう来ないと思ったがそれでも待った。夜が更けて気が済むまでただひたすらに男を待った。男は来なかった。
その次の日もカカシが男とすれ違うことはなかった。カカシは待たなかった。かわりに小さく歌を歌った。男が歌った歌しか知らなかったので男の歌を歌った。男のように気持ちよく歌えなかったがそれでも少し慰められた。
それから小さく歌いながら暗くなっていく道を歩いて報告書を出しに行くのがカカシの日課になった。男がカカシに気付いて口をつぐむのと同じだけの長さを、カカシも黙った。男があらわれることはなかった。
抑えようとしても抑えきれない喜びを見せた男が憐れだった。幸福の絶頂から不幸のどん底まで落とされたような男が憐れだった。たかが恋愛にそこまで入れ込んだ男が憐れだった。虚ろにかわいた目が憐れだった。丸めた背中が憐れだった。
愛を歌った男のすべてが憐れだと思った。
どうにかして慰めてやりたかった。男がまた浮かれて奥歯をかみ締めるなら自分が愛してやってもいいと思った。
男はどこから見ても男だし野暮ったいし女みたいな柔らかな肉もなく筋張っていたけど、それでも抱きしめてそれで歌うなら愛してもいい。わけのわからない言葉で小さく歌うよりも強烈で率直に愛を歌うほうが男には似合っている。
そのためならカカシは男が歌った歌のように頬を寄せ合ってもいいと思った。あの空を向く髪を解きいつくしみ愛しながら指に絡ませてもいい。共に暮らすのもしてやれる。
男が力強く愛を歌うなら、嫌がってもおれがいのちの限りに愛してやるのに。思ってカカシは切なくなった。
それから幾日もそうして過ごした。男が歌ったのと同じくらいカカシが歌ったころ、男は再び川沿いの道にあらわれた。男はやはり俯いて頭のしっぽを空に向けてとぼとぼと歩いていた。
(いた)
その姿を見てカカシの心臓は跳ねた。そして嬉しいのと悲しいのと半々の気持ちになった。
カカシはいつもより大きな声で歌った。慰めたかったのもある。しょぼくれた姿よりも喜びに溢れた姿の方が男には似合う。
だがそれよりもカカシは男に気付いて欲しい気持ちがあった。異国の言葉で歌った日のように自分が意識されないのは嫌だった。たとえ通り過ぎた瞬間に存在を忘れられても、通り過ぎる一瞬だけでも全身でカカシを意識して欲しかった。
男の影に近づくと以前よりも少しだけ早くカカシに気付いた。それを嬉しく感じてカカシは口の端を持ち上げた。その口元は覆面が隠したがすこし高くなった声は隠せなかった。それでも男など意識していないかのようにカカシは振舞った。男から視線を感じたがあえて視線を向けなかった。
それからすれ違う数歩前にくるとカカシはちょうど、
あたしの願いは
と歌った。それまでは男がカカシに気付いてとめていた続きを、それをまねて数日歌ってきたように、区切る。
鷹揚にカカシは男を見つめた。呆然とした男の間抜けな顔が面白かった。虚ろな目よりずっといい。
絡んだ視線を意識してカカシは目を細めた。男を見つめたまま釣りあがった口の端で、
ただそれだけよ
と歌うと視線を逸らした。
あなたとふたりー
止まった男の足と振り返る視線を感じてカカシは気分が良かった。カカシの行動を男がどう受け止めたかなんてことはわからなかったが、男がこれから毎日この道を選ぶというなら、カカシは毎日男に愛を歌うだろう。雨の日でも風の日でもカカシは歌う。男がまた浮かれて歌いだし、奥歯をかみ締めてにやけ顔をこらえる日が来るまで男に愛を歌うつもりだった。
カカシに男の歌が届いたように、男にもカカシの歌が届けばいい、とカカシはやさしく歌った。