歌う男 前編

任務の報告書を出しに行くのに、その日は少し遠回りをして川沿いを歩いた。水の流れる音がいかにも涼しげでカカシはゆっくりと歩を進めた。太陽の沈んだ空はもう薄暗くカカシの影もとかした。


あなたーの燃える手でー

あたしーを抱きしめてー


唸る流水の合間を縫って歌声が聞こえた。

カカシはけっこう耳がいい。地獄耳だ。百キロ向こうまで音が拾える。というのはほらだが、それでもけっこう耳がいい。

それは男の声だった。仕事仕事でそれ以外のことにはどうも疎いカカシだったので男が何を歌っているのかはわからなかった。ただ、はりがあって伸びる声だと、充実した声だと思った。


いのちーのかーぎりにーあなたを愛しーたーいー


強烈で率直な愛の歌だ。こんな歌を浮かれて歌うなんてなんて男だ、聞いてるこっちが恥ずかしくなってくる。まったくどんな野郎だ。カカシは少し呆れた。ずいぶんと幸せそうで羨ましいことで、なんて心の中で歌う男を冷やかしてみた。

曲調を少し変えた声が次第に近づいてくる。黒い影だった男の姿もようやく人のなりに変わってきた。どんなやつなのか見てみれば、どこか野暮ったい感じがする男だった。里から支給されるベストを着ているのでどうやら同業者でしかも中忍以上のようだった。頭の上の方で動きにあわせてしっぽが揺れていた。

こんな男でも恋に浮かれて愛の歌を歌うのかと思った。いや、こんな男だからこそ恋に浮かれてこんな愛の歌を歌うのか、とカカシは失礼にも考え直した。


あなたと二人生きてゆくのよ

あたしの願いは


ふと男がカカシに気付いて口を閉じた。闇夜に慣れたカカシの目には気まずそうに不自然にそらされた視線と、暗闇の中でもほんのりと赤くなる顔がはっきりと見えた。男は奥歯をかみ締めて一生懸命にやけ顔を隠そうとしているようだが、引くつく口の端がにやけた顔をつくり男の苦労は無意味だった。いや、隠しきれてないから。カカシは失笑した。

通り過ぎるとき間近でみた顔の真ん中になめるように一本横線が入っているのが特徴の普通の男だった。


ただそれだけよ

あなたとふたりー


すれ違って背中を向けたとたんに流れ出す男の歌声。いやいやいや、通り過ぎてもおれいるから。聞こえてるから。冷笑を浮かべた。

次第に声は遠ざかり小さくなって消えた。

ばかな男だ。愉快な男だ。今が一番幸せで有頂天になっているのだろう。声からはあふれ出す幸福と愛おしさが滲んでいた。実感のこもった歌なのだろうとたやすく想像させた。

いい年した男が色恋に浮かれて。カカシは嘲笑して忘れた。


ところが次の日、同じ時間帯に同じ道を歩いていたら、頭のしっぽを揺らしながら一本傷の男が同じように浮かれながら歌を歌って歩いていた。そしてまた、


あたしの願いは


と歌ったところでカカシが向かってくるのに気付き口を閉じ、通り過ぎるとまた歌いだした。

その次の日も、そのまた次の日も同じだった。幾日も幾日もそれを繰り返した。

その男の歌はカカシにとって日常の一部になりだした。任務が早く終わってもその時間帯になるまで報告しに行かなかったし、長引きそうだったら強引に終わらせるように努力した。

どういうわけか嘲笑したはずの男の歌は心地よかった。歌に合わせて揺れるしっぽや、自分に気付いて慌てて止む歌声や、赤らむ一本傷や、必死になって緩む顔を引き締めるようすだとかそんなものが、男からあふれ出る愛おしさがカカシに空気感染して温かくこころに落ちてきた。

水の流れる音の隙間をぬって遠くから聞こえる男の声を待った。その歌を聴けば一日の男のようすが見えてくるようだった。陽気な歌声の日は、たとえば恋人と楽しく話をしたのかもしれない。浮かれた歌声の日は、次の休日にデートの約束でもしたのかもしれないし、嬉しいことを言われたのかもしれない。情熱的に、切なげに歌われる日にはひょっとしたら一日あえなくて恋しさが募っているのかもしれない。または愛おしさを実感しているのかもしれなかった。

恋は盲目とはよく言ったものでその男にはいい面ばかりが、幸せな面ばかりが見えるのに違いないのだ。周りなど見えていないに違いない。実際カカシに気付くのもいつも遅かった。最近では同業者としてカカシが心配になってくるほどだった。

男は少し浮かれすぎで危ういところがあったが、カカシにとってそれがこの男の馬鹿なところでありいいところであった。奥歯をかみ締めてもにやける顔が幸せの象徴であるように思った。カカシはそれが気に入った。興味のないふりをして通り過ぎる一瞬、視線を外して全神経を男に向けるのだった。

男はいつだって幸せそうだった。