閉じたまぶたの裏側の 後編

この身を焼き尽くす怒りの業火が深い夜の色をした目をきらめかせ、憎悪がそれに油を注ぎ、真っ直ぐにカカシを目指して飛んできた。

一瞬。

熱いひとみ。

激しい感情。

まっすぐ、嘘の笑顔もなく、言葉もなく、素直な気持ちが、カカシに対してだけむけられた。


カカシがイルカからもらった唯一のもの。


一際大きいある慣れた快感が背筋を這いカカシは、はっ、と荒い息を漏らした。

想像の中の黒い夜色の目のきらめきがまぶたに隠されてしまう前に一層激しく追い立てて逐情する。

荒い呼吸が平静にかえるわずか前に、自分に向けられなくなったイルカの視線を思い出して深いため息になる。倦怠感と虚しさに体を投げ出してカカシは瞑目した。

イルカはカカシを見ない。

イルカへの恋心を自覚した翌日、カカシの目はせわしなくイルカを探した。会って、話がしたかった。自分の仕打ちを忘れたわけではなく、ひどいことをした自覚はあるがそれを謝りたかったわけではない。カカシにとってみれば裏切ったのはイルカだからだ。けれどそれはカカシの言い分で、イルカの言い分は他にあるはずだった。

自分たちはもっと言葉を尽くすべきだ。

付き合い始めたのはもう大分前のような気がするが、実際のカカシとイルカの関係は友人にも満たない。カカシのイルカについて知識は付き合い始めた頃からたいして増えていないのだから、それは親しい間柄であったとは言えない。

イルカのことを少しも知らない、例えば何が好物で何が苦手なのか、あんなに食卓を同じくしたのにカカシは思い出せなかったし、どんな趣味を持っていて休日は何をしているのかも分からないし、顔面を走る傷を掻くしぐさは付き合う前から知っていたことだ。そういえばそのしぐさをしばらく見ることがなかったが、それをいつから見なくなったのかということもどんなに記憶をさらっても出てこなかった。

そもそも、彼は自分の意見を黙ってしまっておく人ではない。それはナルトたちを中忍試験に推薦したときに証明されている。それなのに、イルカが己の意見を口にした覚えがカカシにはない。

イルカはいつも、もの言いた気に開いた唇をかみ締めて言葉を呑んだ。いつからかイルカのくせはそれに変った。カカシはその頑なな唇をこじ開けたかった。

そうだ、いつからか、いやはじめからか。イルカは言いたいことを口にしない。

言葉が必要だった。はじめから足りなかった。だから話がしたいと思った。

無為に傷つけたことをなかったことにはできないが、それも含めて言葉を交わしたいと思った。言い訳をしたいのではなく、素直な気持ちを言って、聞きたかった。

しかしイルカを探しあてた左目が見たのは、空気になった自分だった。

イルカはアカデミーと受付所をつなぐ廊下を歩いていた。閑静な昼下がりでその辺りにはイルカ以外の人間の姿はなかった。

向かいから歩いてくる姿に気持ちが高揚してカカシはかける声をとっさに思いつかなかった。夕べのことを怒っているだろうか、憎んでいるだろうか、いずれにせよ良い感情は抱いていないだろう。イルカは何を言うだろう?

カカシはイルカを呼び止めた。イルカは立ち止まるはずだった。女を連れて歩いていたときもカカシが呼べばイルカは素直に従った。

けれどイルカは立ち止まらなかった。それどころか目もあわせなかった。すれ違って、足を止めたのはカカシだけで、何もなかったようにイルカは歩いた。カカシは慌てて振り返り呼び止めたが、わずか数歩先のその背中には届かなかった。とっさに腕を捕らえて振り返らせてもイルカの視線はカカシを上滑りして、するりと腕をはずしてまた何もなかったようにイルカは歩き出した。

カカシは愕然とした。それでようやく自分のしたことの重大さに気がついた。

確かに自分は傷付いた。裏切られたと思った。そしてイルカを傷つけて、裏切ったとも思っている。けれど実際はそうではない。いや、それが真実だが、認識が甘かった。

カカシはイルカを踏みにじった。気持ちも身体も両方だ。

それなのに、イルカが変らずに自分と話をするだなんて、どうして思えた。

口をききたくないほど、顔を合わせたくないほど嫌って憎んでいるとどうして思わなかったのだ。

言葉を交わして、また同じように、もしくは新しく関係を築いていけると、どうしてそんな傲慢なことが思えたのだ。

カカシはおろかな自分を罵った。つい昨日までイルカが言うべき言葉で、それ以上に激しく酷い言葉で罵倒した。

イルカが心を閉ざすのは自然の成り行きで、イルカの身になってみれば恥知らずな振る舞いであると自分で承知しながらそれでもカカシはイルカと話がしたかった。謝ってすむことではないが、謝って、できることなら許しを請いたい。厚かましいにも程があるかもしれない。

人目のないところでイルカを捕まえようとして同じようにかわされカカシは無駄を悟ると、次にイルカの家へ押しかけた。何度チャイムを鳴らしてもイルカは出てこなかった。カカシは朝まで待ったがイルカは目の前に立つカカシに気付きもせずに普通の顔で出勤した。カカシは廊下の手すりにでもなった気分だった。いや、手すりのほうがまだましかもしれない。どんな拍子にかイルカが触るかもしれないのだから。

イルカの姿が廊下の角に消え、我に帰ってカカシは追いかけた。呼び止めて肩を引いても軽くかわされて終わりだと分かっていて声をかける。

「イルカ先生、待ってください」

「話を聞いてください」

どれだけ呼んでも声は届かない。カカシは声を出していない錯覚にとらわれた。意識して出そうと声を張れば目の前の背中が弾いた自分の声がわずか大きく鼓膜を揺すり、立ち竦んだ。不意にむなしくなった。そしてもうイルカの中にカカシの存在はすっかりいないのだということを思い知り、途端に焦りが生じた。

慌てて追っても姿は見えず、他に思い当たらず職員室へ駆け込めば、今日は朝から受付だと言われそちらへ走った。果たしてイルカは受付に座っていた。

「イルカ先生!」

大声で呼びイルカの元へ向かうと、受付所にいた職員達は驚いた様子でカカシを振り返った。しかし呼ばれた当の本人は涼しい顔で、

「本日の任務はこちらになります」

任務内容の書かれた紙を手渡すと「ご武運を」と事務的に言ってカカシを追い返そうとした。それでもカカシがその場に留まって名を呼べば、取り付くしまもなく「次の方どうぞ」と仕事を続けたのだった。並ぶともなしに少し離れたところにいた忍びは戸惑ってカカシとイルカを見比べたが、再びイルカに促されて足を進めた。

仕方なく任務へ向かった。追い立てる焦燥とは裏腹の冷静な頭で任務をこなす。急ぐときほど落ち着かなければならないと経験が言うからだ。全神経を任務に集中して終わらせると、何をおいてもまずイルカの元へ向かった。

しかし受付はちょうど込み合う時間帯でカカシがイルカの前に立つまでしばらく待たなければならなかった。

ようやく順番が回ってきてカカシは開口一番、

「怒っていますか、イルカ先生」

と言った。イルカはカカシの方をむいた。カカシはイルカを見て、イルカはカカシを見ているはずなのに、視線が合わない。

「お疲れさまです。報告書をお預かりします」

イルカは手を差し伸べた。

「あ、今はありません。それよりもイルカ先生」

「でしたら、こちらにご記入の上もう一度お越しください」

出した手を引っ込めてかわりに紙を一枚取り出すとカカシに渡した。そして朝と同じように、「次の方どうぞ」と言った。

「イルカ先生」

「後ろが支えていますので」

やはりかわらず事務的な声音にカカシはしぶしぶ従った。言われたとおりに記入しもう一度イルカの前に立ち、報告書を渡してカカシは同じことを言った。

「イルカ先生、怒っていますか」

渡された報告書に目を落としてイルカはカカシには答えなかった。それから判を押して面を上げる。

「報告書はもう結構ですよ、お疲れ様でした」

言外に早く帰れと言っている、その言葉をカカシは無視した。

「怒っていますよね、イルカ先生」

「……なんのお話でしょうか」

「怒ってください、イルカ先生」

「私が怒ることなど何もありません」

伏せられたイルカの視線と突き放す冷たい声にカカシは短気を起こした。自分を見ないイルカが、もどかしく、また苛立たしい。

「俺はあなたに酷いことをしました! でも、あなたが好きです!」

何を言っているのか。謝るのではなかったのか。口を出た瞬間思ったが遅かった。

イルカの冷たい表情が醜く歪むさまがいやにゆっくりと見えた。それから立ち上がり振り上げる拳がカカシの頬目掛けて飛んでくるさまも。次いで鈍い衝撃が襲った。

「こんなところで、そんなに私が憎いのか。家まで来たり後を付けたり、あなたの嫌がらせは度が過ぎます。もう止めてください。…俺の前に顔を見せるな」

拳の激しさと正反対の低く押し殺した声でカカシを拒絶した。どれだけ挑発しても冷静さを崩さなかったイルカが煮えたぎる怒りをその黒い目に宿して睨む。ようやく絡んだ視線が、カカシの心を鷲掴みにして離さない。あの夜の眼差しが蘇り背筋を快感が這い上がる。

しかしカカシが熱い視線に見とれている間にイルカのまぶたは静かに伏せられ、その目に宿る怒りも憎しみも、全てを覆い隠した。

「仕事の邪魔です。お引取り下さい」

言葉以上の拒絶を全身で醸し出す。それすらもあの夜と同じでカカシは落胆した。

ああ、なんて取り返しのつかないことをしたのだ。

カカシは、イルカを諦めなければならない。