ちいさな子どものあどけない声が遠くでざわめくのが耳に届く。

窓の外に視線を転じれば、声の通りにあどけない子どもたちがアカデミーの門に向かって駆けてゆく。

ひとりの子どもが振り返り、誰かに気付く、そして呼ぶ名は、

「イルカ先生!」

その声に幾人かが同じように振り返り、同じように声をあげる。

「せんせーい、さようならー」

おそらく校舎にいるその人は、目を閉じれば鮮明に目の前に思い描ける。黒い髪を頭の高い位置で結って、まっすぐ伸ばした背筋は教師の見本だ。

鼻をまたいで走る傷は、しかし彼の朗らかさを損なわない。

手にはきっと出席簿、ひょっとしたら何かしらの書類かもしれない。

声に気付いてあげる視線は穏やかに子どもたちを捉え、黒の瞳を上と下のまぶたが細くして、

「おう、気をつけて帰れよ」

と返す声は低く通って子どもたちに届く。


閉じた視界に映るあのひとが、どうしようもなくいとおしい。



閉じたまぶたの裏側の 前編



この恋を、いや、果たしてこの薄汚く醜い執着を恋と言うかは甚だ疑問だが、例えば誰かを思って身悶えするほどのもどかしさと快感を味わうことが恋だとするならば、カカシがイルカに対して抱いている感情は恋だと言えるだろう。

この恋を成就させることをカカシは恋の自覚とともにあきらめた。なぜなら、カカシの自覚はイルカがカカシに対して心を閉ざすのと同じくして起きたものだったからだ。

カカシはイルカの柔らかく大切な部分を踏みにじり、ひどい屈辱と絶望を与えた。思えばそのときすでにカカシはイルカに執着を感じていた。

そうしたのは、本当にささやかな、漠然とした好奇心だった。いや、確かめたかったのだ、自分を慕うこの男が、どれだけの思いを寄せているのかということを。全てを許容し受け入れることを愛の信条だとでも言うように実行するこの男が、どんな仕打ちを受けても自分ひとり愛し続けることができるのかどうかということを。

いや、望んだ。


出会いを、カカシは覚えていない。気付いたときには、名前と、はにかむような顔と、凛と通る声とを知っていた。

カカシとイルカとの関係を一変させるできごとは、むず痒くなりそうな花粉のにおいと柔らに花がほころぶ生暖かな空気とに誘われて待機所ではなくアカデミーの裏手の木の下で本を片手にうつらうつらしていたときに起こった。

近づいてくる足音に気付いて体を起こすとイルカが驚き戸惑って足を止めた。そしてすぐに慌てたしぐさで抱えていた書類を持ち直し、

「お邪魔してしまいましたか」

動揺した自分を恥じるように彼の特徴のひとつである鼻をまたぐ傷を掻いた。

カカシは身体を起こして頭をかきながら「いいえ」と返した。

「あんまり気持ちがよいので眠ってしまったようです」

「そのようですね。最近は随分と暖かくなりましたからね」

はにかんで笑ったあと、少し迷ってイルカは半歩だけカカシに近づいた。

「今日は待機なんですか?」

「ええ、そうです。イルカ先生はこんなところで油を売っていて大丈夫なんですか?」

「はは、もう少し油を売っていこうと思ったんですけど…」

困った顔をして言葉を濁すとイルカは鼻傷をかいた。それが照れたり言い難いことを言うときの彼の癖であることをカカシはもうすっかり知っていた。カカシは笑った。

「じゃあその油買いましょう」

嬉しそうにイルカも笑った。足音に気付いたカカシによって止められた数歩をイルカはゆっくりと詰めてカカシから少しはなれたところに腰を下ろした。あぐらをかいたその上に書類をおいて、斜め向かいのカカシの様子をうかがうと、落ち着かない様子で書類を弄んだ。

留まったイルカは何も言い出さなかった。カカシもまた何も言いはしなかった。柔らかく髪を揺らす穏やかな春の風が心地よく二人の間を通り抜けていくのを感じていたからだった。そして、風の終わりがふわりとカカシの露出の少ない頬を掠めたとき、カカシはようやく口を開いた。

「いい風ですね」

遠くを見ているカカシを上目遣いでちらりと見てイルカはすぐに視線を束ねられている書類に落とし、「そうですね」とうなずいた。カカシはそのイルカのいつもらしからぬ様子を不思議に思って水を向けた。

「どうしたんですか、先生。今日はなにやらようすが違いますね」

勢いよく顔を上げカカシと視線が合うとイルカは気まずそうに視線をそらして、鼻の傷に手をやった。それからイルカは、そうですか、と聞いたが、すぐにそうですよね、と独り言のように呟いて、やっぱりわかりますか、と苦く笑った。

「最近悩んでいることがあって、今もどうしようか迷っているんですけど、でもこうやって偶然にもあなたと会えて私は嬉しく思います」

イルカが何を言い出したのかカカシにはわからなかった。何と相槌を打っていいのか判断しかねてカカシは、はあ、と間の抜けた声を出した。イルカはかまわず続けた。

「次にいつ会えるかわからないし、こんな機会、もう二度とないかもしれないので、言わせてください」

わけのわからぬままカカシは「どうぞ」と促した。イルカは、鼻の傷をかいて、はは、と笑ってから、片方だけあらわになっているカカシの灰色の目を見据えて真面目な顔をした。

「カカシさんが好きです」

春の、暖かな風が吹いた。

言葉の意味を理解するのに少し時間がかかった。カカシの脳に正しくイルカの言葉が届く頃にはイルカはカカシの視線から目を伏せることで逃げて、取り繕うように、だからといって何を望んでいるわけではないと付け足して謝った。

それにカカシが、

「いいですよ。お付き合いしますか」

と聞いたのは、唯一さらけ出した右頬を撫でた風が気持ち良かったから。

イルカの言葉を理解するのにカカシがかけた時間よりも三倍の時間を使って理解すると、イルカの頬はみるみるうちに赤く染まった。

付き合いだすとイルカはカカシに尽くした。カカシの生活がお粗末であると気付くとカカシの家を訪ねて掃除や洗濯をし、カカシの好物がサンマと知ると食卓に並べ、よく世話をやいた。カカシにしてみれば金のかからない家政夫ができたようなものだった。

イルカがたびたびカカシに見せる遠慮がちな、しかし好意に溢れた笑顔は忠誠を誓う犬をカカシに思わせた。犬は好きだ。ちぎれんばかりに尻尾を振るイルカをかわいがってもいいと思った。イルカがカカシのために何かをするとカカシはイルカの頭を優しくなでた。そして労いの言葉をかけた。ときにはうまいものを買い与えたりもした。イルカはその褒美をはにかんで受けとり、よろこんでいるようにカカシには見えた。

はじめはそれでよかった。カカシはそれに何の疑問も持たなかった。これまで付き合ってきた女性との関係もそうであったからだ。

尽くすイルカに、苛立ち始めたのはしばらくしてだ。イルカはいつでもカカシの機嫌を慎重にうかがっている。カカシの機嫌を損ねないようにいつでもカカシのすることを許した。

許した?

違う、そうではない、目をつぶったのだ。見ないふりだ。その証拠にカカシが苛立つとイルカはいつでも何かをいいたそうに唇を薄く開いて、思い直したように口を噤む、それから無理に笑顔を作って媚を売った。

尽くす犬はかわいい、しかし、何も言わないイルカには腹が立った。

もやもやと胸を覆う黒雲をカカシは持て余した。ぶつける先が見つからなかった。それを傍若無人にイルカにぶつけたのは八つ当たりだった。明らかにイルカにとって不利益な、またご免被りたいような、カカシのわがままだった。それは自分でもわかったが止める術を持たなかった。それでもイルカは何も言わない、カカシがどんなふうに当たっても最後にはただ笑って受け流すのだ。それにカカシはさらに苛立ち、つまり悪循環のなかでむやみに正体のわからない苛立ちだけがふたりの間に高く積もった。

カカシが望んだ関係は、イルカの求めた関係は、果たして本当にこれなのか。

イルカは尽くす、だからカカシはイルカの好意を踏み付けた。それでも自分を慕うのか、尽くすのか。彼がかわいがる忍犬の忠誠ですら確かめたことがないというのに。

ある日、付き合いだして二月も経った頃だったか、カカシはとある任務によって埃と泥にまみれて家に帰った。カカシはすぐに湯を使った。汚れを落としてさっぱりしてしばらくすると玄関先に人の気配がし、それからチャイムが鳴った。カカシはすぐにイルカだと分かった。日課なのだ、イルカは毎日のようにカカシの家にやってきては晩飯を作って共に食べて帰る。

イルカであると分っていたからカカシは身なりを整える必要性を覚えず、風呂から出たなり、下をはいたきりで頭から滴る水をタオルで拭いながら玄関を開けたのだった。

こんばんは、といいかけたイルカの笑顔はそのままぎくりと固まった。カカシがいつものように、「こんばんは、どうぞ」と家に入るように体を横によけ、通る空間を空けてもイルカは動かなかった。不思議に思って名を呼べば、イルカは視線を横に流しぎこちなく答えた。

「イエ。はい、あの、夕飯を、あの、えーと」

「はい、いつもありがとうございます。どうぞ」

カカシはもう一度促したがイルカは動かなかった。カカシは怪訝そうにイルカを見た。薄暮れのなか家からさす光がイルカの顔にカカシの黒い影を伸ばしていたが、上気した頬が見て取れた。それでようやく理解した。

イルカにとって自分はそういう対象だ!

身を引いて踵を返した。カカシの姿が居間へ消えると玄関先で安堵の息が漏れ、それからようやく家に上がろうとする気配を感じた。カカシは寝室に戻ると急いで身支度をした。部屋着で身を包んでも何か落ち着かない思いがし居心地が悪かった。

二人して落ち着かないまま、夕飯を用意し食べ終わると、いつもよりも随分と早くにイルカは自分の家に帰った。カカシは引き止めなかった。

ひとり残された部屋で、カカシは、付き合うといったのに肉体的な触れ合いを少しも考えたことのなかった自分に動揺した。しかし、どれだけ考えてもイルカをどうこうする自分も、イルカにどうこうされる自分も想像することはできなかった。

それからカカシは注意深くイルカの様子をうかがうようになった。ときおりではあるがイルカは確かに欲を滲ませた視線をカカシに向けているのに気付いた。性的な接触など想像できないと笑って切り捨てたカカシだったが、そのくせ、注意しないとわからないわずか一瞬、欲によどむイルカの目に気づくことはひどくカカシを高揚させた。

ところがその高揚は長く続かなかった。イルカは欲を持ってカカシを見ている、それは事実であるのに、イルカは何の行動もしなかった。つまり積極的にカカシに触れなかった。ほんのわずか、日常生活をしていたら偶然触れてしまうであろう指さえもなかったのだ。

カカシは憮然とした。わざと肌を露出させて欲を煽ったが、頑なにイルカは触れなかった。しだいに苛立ちが募り、意地になってイルカの我慢を崩そうとしたがイルカの理性は鋼鉄の胸当てよりも堅かった。カカシの刃が貫かないものなどこれまでなかった。カカシはますます意地になったが全てが徒労だった。

意地を張って半月、カカシは作戦を変更した。女の匂いをさせてイルカに会いに行った。何を期待してそうしたのか、明確に自覚はなかった。イルカの悋気が見たかったのか、あるいは、あらわにする欲を望んだのか、ただ、漠然と何かを期待していた。

かぎ慣れない女物の香水の臭いにイルカは一瞬眉をしかめた。しかしすぐに何もない顔をしてカカシを家の中へ招いた。カカシは気付かなかったのか、と思ったがすぐに思い直した。イルカは気付いている。

気付いて、気付いていないふりをしている。そうだ、いつだってイルカは何もいわない。どんなに理不尽な仕打ちでも、笑ってカカシを許し、ひとり耐えてきた。

今までの比ではない苛立ちがカカシを襲った。なぜ、と疑問だけがそのときカカシの全てになった。

なぜ、何も言わない、問い詰めない!

次第に疑問は怒りに変った。カカシの意地はイルカを欲に走らせる方向ではなく、ぴたりと閉じて開かない唇をこじ開ける方向へ向かった。

しかし、その日、どれだけイルカの前で動き、女の匂いを振りまいて歩いても、もう眉一つしかめることもなく、鷹揚に笑い、はにかんでそっと逃れるばかりで、イルカの肉感的な唇はカカシを責める言葉もなじる言葉も紡ぎはしなかった。

それから幾日も女の匂いを纏わりつかせてイルカに会った。それでもイルカの態度は変らなかった。業を煮やしたカカシはついに女を侍らせる手段をとった。

女を右腕に張り付かせてイルカの前に立つと、瞬間、イルカの顔色は失われた。カカシは口布の下で唇を歪めた。そして言葉を失うイルカがさも不思議だとでも言うように、ゆっくりと、名を呼んだ。

「イルカ先生?」

さあ、怒れ、それがお前の仕事だ。

しかし、イルカはすぐに顔色を取り繕うと、

「こんにちは、カカシさん。こんなところで会うなんて偶然ですね」

眉根を寄せることもなく、唇をわななかせることもなく、これまでのように、いや、今まで見せたどの笑みよりもその顔は完璧だった。

裏切られたと、思った。

目の前が真っ暗だ。アンタは何かを言うべきだ。

何を?

そんなのは知らない、ただ、無理にでもこじ開けて何でもいいから笑顔以外のものを引きずり出したい。

「イルカ先生、今日晩飯はいいです。外で食べるから」

女のほうにちらりと視線を流して言えば、イルカは、「そうですか」と笑うきりだ。

仮にも恋人が目の前で浮気を宣言しているというのに!

では、また、と言って自分から離れていくイルカの吊り上った口角に反吐が出そうだ。苛立ちも怒りも通り越して、ただ笑うイルカが憎かった。


次の日も、また次の日も、女を連れる自分に受付で他人に見せるような貼り付けた笑顔のイルカにカカシはもどかしい思いを募らせた。

たとえば決定的な浮気の現場を押さえさせたのならば、イルカはカカシを罵倒するだろうか。

どうしたらイルカがその仮面を剥ぐのか、カカシには他に見当がつかなかった。

カカシは暗い気分でため息をついた。

「何か言うことはありませんか、イルカ先生」

買い物袋を右手に提げたイルカは居間の入り口に立ち、慌てて逃げ帰った女を見送ったまま玄関を見つめていた。その顔には貼り付けた笑顔はなかったが、しかし恋人の浮気現場を見せられた動揺もなければ衝撃もなく、当然怒りも悲しみも浮かんではいなかった。

「あなたが私を呼んだのは今日でしたね?」

何度か迷うように薄く唇を開閉させてから紡がれた言葉はただの確認だった。

「夕飯を一緒に、と」

何の感情をも窺わせない視線を受け止めて、そこにカカシは何かを見出したかった。注意深く探りながら肯定するとイルカはふいとまぶたを下ろしてカカシの視線から逃れると背をむけた。何も言わずに帰るのかと思い瞬間怒りがこみ上げるがそうではなかった。

キッチンに入ると買い物袋から魚を取り出し、何もなかったように夕飯の用意を始めた。カカシはその後姿を入り口のドアに寄りかかって眺めた。魚を火にかけ、ジャガイモを洗うと皮をむく。ピューラーから包丁に持ち替えてジャガイモを半分にするのを見ながらカカシはもう一度訊いた。

「ねえ、イルカ先生、何か言うことはないんですか」

イルカはふり向かなかった。

「いえ、何も」

声は普段と変わりがなかったが、答えるまでに少し間があった。先ほどと同じようにその肉感的な唇を開閉させたのだろうか。

だとしたら、何を言おうとして、止めたのか。

そう思うのは期待が過ぎるだろうか。どちらにしてもカカシが聞きたいのはなんでもないと誤魔化す言葉ではない。

カカシはイルカに近づくとまた同じ質問を繰り返した。

「何もありませんよ。それより、もう少し時間がかかりますから、先に風呂でも行ってきたらいかがです?」

それより? カカシにとってはイルカの方が重要だった。

「ねえ、イルカ先生、こちらを向いてください」

包丁を握った手を休めずにイルカはほんの少しだけ顔を後ろに向けて、「なんですか」と尋ねる。しかしそれだけで、視線も体もカカシの方へ向くことはなかった。カカシが苛立ってイルカの肩に手をかけるとイルカは体を強張らせた。

強引に振り返らせようとする前に包丁をまな板に置いて、カカシの手から逃れるようにして振り返った。所在無げに宙に浮いた右手がカカシの苛立ちを煽った。逃げられた分だけ距離を縮めて再び肩を掴もうとすると反射的に上がったイルカの左手に叩き落とされた。

驚いてイルカを見るとカカシよりも驚いた顔をしてカカシを弾いた左腕を掴んだ。その手を胸元に引き寄せると、小さな声で謝った。

それから唇を噛む姿にカカシは目を細めた。頑として開かない唇が憎いからだ。

両手で頬を上向けるとカカシはイルカの頑なな唇に噛み付いた。イルカは驚いて身を引いたが、すぐに流しに阻まれた。更に唇を貪るとイルカは明確な意志を持ってそれから逃げようとした。カカシは流しと自分の体でイルカを挟み、逃げを打つイルカを押さえ込んだ。

唇をかみ締めてそれ以上を拒むイルカの顎を強引に押し開いてカカシが侵入を果たすとイルカはさんざん抵抗した。しかしカカシがそんなことでは物ともしないことを理解するとイルカは体の力を抜いた。

それに気を抜いてカカシがさらに深くへ舌を伸ばした途端にイルカは牙をむき、突然の攻撃に油断した隙にまんまとカカシの腕から逃れていった。

口元に手をやる。血の味がした。ひどく慣れた味だ。

「触らないで下さい」

低いイルカの声に顔を上げる。嫌悪をあらわにイルカは唇を拭った。暗い感情がカカシの内で火を噴いた。

イルカを傷付けたい。

カカシは一歩踏み出す。イルカは一歩後じさった。

「なによ、あんたいつもいやらしい目で俺のこと見てるじゃない。したかったんでショ?」

壁際まで追いつめてカカシは言った。イルカの羞恥で染まった頬に嗜虐心がそそられる。

「触らないでなんていって、ホントは触ってほしいんでしょ? 俺に、女みたいに抱かれたいんだ。いやらしいね、イルカセンセイ」

下卑た薄笑いでイルカに手を伸ばした。羞恥ではなく怒りに顔を歪めてイルカはその手を払い落とした。

「触るな」

「またまた。あんた取り澄ましてるけどさ、ホントは嫉妬してるんでしょ、さっきの女に」

これまでのイルカの態度からカカシは嫉妬するとは少しも思っていなかったが、わざと怒りを煽るように言った。イルカは意外にも俯き低く押しつぶれた声で肯定した。

「悪いですか」

それはカカシが聞いたなかでもっとも素直で感情的な言葉だった。カカシが聞きだしたかった本当のところだ。

それでも一度目覚めた悪魔的な感情はおさまらず、逆に悦んで成長するばかりだ。

「アハ、ホントなんだ、バカだねあんた」

弾かれたように面を上げたイルカの目になかに傷付いた色を探す。

手を伸ばしても今度は払われなかった。頬をなで喉を伝って胸に手を添えた。

「抱いて、あげようか」

イルカの呼吸が止まる。いやらしく、カカシは笑った。腰を抱き寄せてイルカの尻を掴んだ。

「あの女みたいに」

次の瞬間、左の頬に鈍い衝撃があった。固く握られたイルカの拳は震えていた。

「ふざけるな!」

「何よ、抱かれたいんでしょあんた」

「あんたなんかに抱かれたかない! 女のアソコに突き立てたもんを突っ込まれるなんてぞっとするね冗談じゃない! あんたに抱かれるくらいなら行きずりで強姦される方がまだましだ!」

激しいイルカの拒絶にこれまでにないほどの怒りを感じた。目の前が真っ赤に染まり、カカシはひょっとしたら自分は真っ直ぐ立っていないのではないかとどこか頭の隅で思って踏ん張った。

「あ、そ。じゃあ望みどおりにしてあげるよ」

煮えたぎる怒りに反比例の冷たい声がカカシの喉からするりと落ちた。

カカシはすばやく印を切ると式を飛ばした。そしてイルカの腕を掴み体の向きを九十度右へ変えると一歩踏み出した。

「ほら、行きますよ」

「ちょ、なに、」

イルカは自分の腕を引いてカカシを引き止めるが、カカシは力を入れて強引に引っ張ることでイルカの抵抗を無視した。外へ出ると鍵もかけずに大股で先を急いだ。

引きずられながらイルカは、自分を引っ張って先を行くカカシの背中に向かって何度も「離して下さい」、「どこへ行くんですか」、「ねえカカシさん」と呼びかけた。カカシはそれらを全て聞き流した。

傷付けたい、と思って傷つけたのはカカシだ。何もいわないイルカが憎かった。だからカカシは自分の不貞を詰る言葉が欲しかった。そのために女との濡れ場も見せ付けた。侮辱の言葉も浴びせた。

果たしてイルカは初めて感情的にカカシに向かってきた。感情を傷付けられてイルカはカカシを拒絶した。

詰る言葉が聞きたかったのではなかったか。それなのに、望んだ言葉を手に入れて湧き上がる感情は煮えたぎるような怒りだ。

開いても開かなくても憎たらしいその唇を、この男を、どうしてくれよう?


里の中心から外れ、住宅の明かりも届かない鬱蒼とした林の中でカカシは止まった。力を入れて握っていたイルカの腕を放り投げる。イルカは二、三歩よろけて目の前の木に手をついて止まった。カカシを振り返る目は戸惑いと不安を映してわずかに揺れた。

「あの、カカシさん? ここは」

問いかけるイルカをカカシは見ずに、自分が来た方向と反対を窺った。すると音も気配もなく忍び寄ってきた影が、低い声でカカシの名を呼んだ。

カカシは影に向かって片手を挙げた。

「や、呼び出して悪かったね」

「いや、構わない。それより珍しいな、お前が。こういうの嫌いじゃなかったか?」

のっそりと体躯のいい大男が姿を現した。影から出てきても全身を黒のマントで覆っているためやはり影のようだった。そしてその顔面には動物を模った白い面が張り付いていた。

「まあね」

男は喉の奥でくつくつと笑った。

「いいのか」

「いいよ。好きにして構わない」

カカシは低く笑った。

「カカシさん」

呟くように名を呼ばれようやくイルカを振り返る。その暗い笑みにイルカが息を呑んだ。

「ねえ、イルカ先生、あんた男が好きなんでしょ。犯されたいんだよね。ゆきずりでちょうどいい奴知ってるからさ、紹介してあげるよ。気性が荒い奴だけどさ、そのほうが先生もイイでしょ?」

紹介してゆきずり、っていうのもなんか変だけど。

そう愉快そうに笑うカカシにイルカはこれ以上ないくらいに目を見張った。カカシは手を伸ばすとイルカの頬を一撫でした。

「こいつ女にはつっこんだことないし。ねえ、よかったね、望みどおりだよ」

後退ろうとしたイルカを阻んだのは背にした木だった。

「逃げるんじゃないよ」

強く顎を掴んで凄む。イルカは何かを言おうとして息を吸い込んだ。しかし息を止めてそのままカカシを睨みつけた。カカシはそれを鼻で笑うとゆっくりと数歩下がり、呼びつけた男に場所を譲った。

カカシが退いた分をイルカは詰めようとして大きく一歩を踏み出して今度は面をつけた男に阻まれる。もう一度、イルカは何かを言うために大きく息を吸い込んだ。そして同じようにまた、止める。苦しげに眉根を寄せて怒りに燃え憎悪にきらめく目でカカシを睨む。

背筋がぞわりとした。暗い悦びが体中を駆け巡る。

カカシは冷たく見返した。言いたいことがあるなら言えばいい。

しかしイルカはまぶたを閉じると唇をかみ締め、言葉になるはずの息はため息になって終わりだった。

影のような男がイルカを反転させて木に押さえつけるときに、反射的に開かれたまぶたの下はもうカカシに向けられることはなかった。

そしてかみ締められた強情なイルカの唇もまた開かれることはなかった。それは男が乱暴にイルカの体を弄っているときも、十分にほぐれていない後ろに猛った男のものを突き立てられて揺さぶられているときも変らなかった。ただ、ときおり獣のような低い唸り声を漏らすきりだった。

イルカの体を使って何度か達した後男はひどく満足げにカカシを振り返った。

カカシはイルカだけを見ていた。

「機会があればまた頼む」

「あればね」

男を見ずに素っ気なく返すが、男は気にすることなく来たときと同じように音も気配もなく影に帰っていった。

背を預けた木から離れカカシはイルカの側近くに立って見下ろした。力なく仰向けに倒れているイルカは下肢だけがあらわで汚れていた。普段は高い位置で結われている髪は解け額や頬に張り付いていた。ずっとかみ締めていた唇からは血が滲んでいる。

しばらく見下ろしていると、不意にイルカの指がぴくりと動き拳になった。震える右腕を支えにしてカカシに背をむけた。それから体を起こそうとして何度も崩れ落ちた。

カカシは黙ったままその様を見ていた。一言、イルカが助けてくれと言えば、カカシは手を貸してやるのに、と思った。

しかしイルカは何も言わなかった。そうしてようやく体を起こすと、尻から溢れてくるものにも頓着せずに下着とズボンを履き、押さえつけられていた木に縋って立ち上がると弱々しく、しかしひとりで歩き出した。

その震える背中を見送りながらカカシは、一言、と思った。

貸してやるのに、ではない。自分は手を貸したいのだ。震える肩を支え、おぼつかない足取りを少しでも助けてやりたいのだ。

援助を求める一言を願うのも、詰る言葉を望んだのも、意地になって自分に触れさせようとしたのも、苛立ったのも、全部同じ感情のせいだった。

傷付けたかったのも。

そうして傷付いたイルカがカカシを拒絶したときに感じた怒りも。

助けてと言え、嫌だと言え、ひどいと、ひどい仕打ちだと自分を詰れ。

カカシは強く念じたがイルカは一度も振りかえらなかった。苦痛に呻きながら、重い体を引きずるようにして去っていく。カカシから離れていく。

傷付けたのはカカシなのに、ひどく傷付いた。

イルカの好意を試して踏みにじったのはカカシなのに、裏切られた気がした。

ぜんぶ、ぜんぶ、そのせいだ。

立ち尽くしたままカカシは絶望的な気持ちで思った。



イルカが好きだ。