深く暗い闇だった。抱きかかえた膝でさえ触れていなければそこにあることが判らないほどの濃い闇の中だった。
ここは黄泉の国だとカカシは思った。
身じろぎした瞬間、闇が雨上がりの湿った空気のように体にまとわりついた。いや、闇だと思ったものは人の手になって明確な意図もなくただカカシにまとわりついた。それに思考はないが知っているからだ。自分がカカシによって闇のような手になったことを。
カカシは膝を抱えなおした。明かりがあり人が見ていればその姿を胎児のようだと言ったかもしれない。
手がカカシに触れるたびにカカシは自分の生み出した地獄を体験する。それは死への絶対的な恐怖であった。まとわりつく手ははじめひどくカカシの心を乱したが、不快であるのには変わりがなかったが最近ではある種の安堵感をカカシに与える。
手が触れて視界は闇から赤に変った。音もなく近づいてくる狩人の存在にとてつもない恐怖を感じた。それは手の思念だ。カカシはその恐怖を作り出すのが自分であると認識し、自分の確かな存在感を確認した。
それはひどくカカシを慰めた。
「カカシさん」
不意に声が響いた。カカシは自分が呼ばれたことに気付いたが声を無視して闇にまどろむことを選んだ。
「カカシさん」
するともう一度声があった。カカシはもう一度無視しようとした。
「カカシさん」
なおも黙っていると声は執拗にカカシを呼び、カカシのまどろむ胎盤を脅かした。
「カカシさん」
「……うるさいよ」
何度目かの呼びかけにカカシは億劫に答えた。すると声は、
「うるさいとはなんだうるさいとは。せっかくむかえに来たのに」
と憤った。それにカカシは頼んでないよ、と思い、押し付けがましいその声を振り払おうとした。が、
「ほら、かえりますよ」
どくん、とひとつ脈打つ。
かえる?
帰るってどこに、自分のいるべき場所はここだろう。
カカシは初めて顔を上げると声を探したが、辺りはやはり何も見えなかった。
「どこってあんた、うちですよ。当たり前じゃないですか」
そう言って差し出された手に、闇が震えた。小さな火が生まれて声の主を浮き立たせた。
頂点で結わえた黒い髪、カカシのいる闇のように深い色をした目、鼻をまたぐように走る一本の傷、そのどれもに見覚えがあった。そしてカカシは思い出した。自分はこの男と番のように暮らしていた。
そうだ自分はこの男を愛していたのだ。
「ほら」
ぐいと差し出される手に、カカシは急に怖くなった。そして自分の周りに明かりがないことに安堵した。
「かえりません。…かえれません」
カカシには帰りたい心があったが、しかしそれ以上に帰ってはならないと強迫観念にも似た強さで思った。
「あんたが帰らないんならおれもかえりませんよ」
「それはだめだ」
ここはこの男には不釣合いだ。
「じゃああんたも帰るんです」
急に伸ばされた手から清廉な香りが立ち上った。その匂いにカカシは陶然としたが次の瞬間自分の醜悪な臭いを感じて、つかまれた腕を振り払った。
カカシは男の顔がそんなことされるとは思いもよらなかったとでも言うみたいに驚いた後傷付いて翳るのを見た。
「……だめです」
「どうしてですか」
「おれは、……だめなんです」
「だめだめじゃわかりません。…あんたがいなくなったらおれはどうしたらいいんだ」
苦悶に歪んだ顔に、カカシは憐れになった。この男のこの表情にカカシは一番弱かった。なんとかしてやりたい気持ちになるのだ。
「……わかりました。帰ります」
カカシの言葉に気持ちが浮上した顔になる素直な男に、カカシも嬉しかった。
「でも、条件があります」
「条件ですか」
「はい。まず、おれの前を歩いてください。あんたについて歩いていきます。でも、おれのことを決してふり向かないで」
「前を歩いてふり向かなければいいんですね、わかりました」
じゃあ行きましょう、とさっさと踵を返した男の三歩あとにカカシはゆっくり歩き出した。
カカシが前に進むたび闇の手はカカシを行かすまいと絡みつき地獄を見せる。
「カカシさん、いますか」
「…はい」
地獄の合間から届く男の声にカカシは苦しいのをこらえて返事を搾り出した。
闇の手はカカシの足を止めることができないとなるとカカシを押し戻そうと躍起になった。体中を引っ張られ、髪は引き抜かれ肉は食いちぎられた。カカシは恐怖と痛みに耐えた。
「カカシさん」
「………はい」
徐々に闇が明るくなるとその分だけ手の数は減ったが、今度は光の分だけ身をやかれた。温かくなる空気に肉が腐敗し蛆がわいた。蛆は特に左目に集中して眼球を這う。
「カカシさん」
「……………はい」
手に引き抜かれなかった髪がごそりと落ちて肩にかかった。
「カカシさん」
「………………」
腐った肉がぼたぼたと地面に落ちた。
「カカシさん?」
カカシの前を歩く男が立ち止まると、カカシも同時に立ち止まる。
「カカシさん? いるんですか」
男の声が不安に揺れる。いるから、と答えようとしたカカシの喉を闇の手が力の限り押しつぶしたので声は出なかった。
カカシはどうかそのまま振り返らずに歩き出せ、と強く願った。
こんなに醜い姿を見られたらきっともうお終いだ。
闇の手の見せる地獄よりも、闇に押し戻そうとする手の抵抗よりも、腐敗していく体よりも、なによりもそれが怖かった。それを想像することはひどくカカシを傷つけた。
振り返るなと唱え続けた時間はひどく長く感じた。
立ち止まった男は最後に一度カカシを呼ぶとついには振り返って醜く爛れたカカシを見た。男の顔に浮かんだ表情に、カカシはもうだめだと思った。カカシはその場を逃げ出したかったが体がうまく動かなかった。
どれくらい固まっていたのか、それから今までカカシが見たこともないような顔をして男は笑った。
「ばかだな」
カカシは泣きたくなった。