悪い男

日中その主である子どもたちが帰った後の寂寞としたアカデミーの廊下を歩きながら、イルカはそろそろだろうと神経を研ぎ澄ました。同時にこめかみを狙って鋭い殺意が走り、イルカは身を引いた。間髪おかず顎、咽元、胸、みぞおち、金的、腿、脛と相次いで鋭い弾丸が狙い、それを避けるうちにイルカの背は何かに当たり、次の瞬間には咽元に鈍色に光るくないがあてがわれていた。

ころり、ころりと、壁に当たった石ころが落ちた。

「物騒ですねえ、カカシ先生」

背中にある待ちに待った男の気配にほくそえむ。

イルカはそっとカカシの腕を押してくないを遠ざけ、振り向いた。苦々しく眉根を寄せるカカシの様子に無条件で笑みがこぼれる。

「何がおかしい」

「いえ、嬉しいだけです。こんなに熱烈に抱きしめてくださって」

「……白々しいまねしてんじゃないよ」

押しつぶした低い声は引きつっている。カカシは逆手でもっていたくないを持ち替えて正面に向き合ったイルカに再度向ける。

「アンタまたひとの女盗ったでしょ」

険しい視線を向けるカカシとは対照的にイルカは呆れた視線で返した。

「だってあなたろくな女と付き合ってないじゃないですか」

「ろくなって……!」

「それに女を自分の、とか思ってる時点でダメですよ。女は彼女自身のものなんですから」

カカシは言葉に詰まった。

イルカは自分に向けられたカカシの手を包むと、そっとくないを取り上げた。手のひらで弄んで子どものように笑う。いや、子どものように純粋に、けれどその表情は獲物を狙う男のものだ。

反論しようとカカシが口を開くのと同じタイミングでイルカは先を制した。

「俺にしなさいよ」

呆然とイルカの言葉を理解しない様子のカカシに、もう一度ゆっくりと言う。理解の色が唯一あらわな右目から広がると、イルカはよくできましたとばかりに危険な刃物をあるべき場所へ収めた。

それから抜け抜けと追い討ちをかける。

「俺なら絶対にあなたを裏切ったりしませんよ」

カカシは歯を鳴らしながら意地で口を開いた。

「……よく言う。さんざ遊んでおいて」

「それはもちろん、遊びですから」

「ろくでもないのはアンタじゃないの? オレが誰かと付き合うたびに横から手を出して、確かにオレはろくな女と付き合ってないね、アンタみたいな悪い男に簡単にだまされるんだから」

「そりゃあね。必死で悪い男になりましたよ。だってオレが欲しいのはあなただけですから、カカシさん」

カカシは目を細めた。

「アンタ、中忍で男の分際でオレを満足させられると思ってるの」

「階級も性別も関係ありません。そもそもあなたそんなこと気にする人じゃないでしょう」

「気にするかどうか決めるのはオレだよ」

イルカのペースに嵌っている自分に気付いて悔しさからカカシは冷たく突き放す。カカシだったら、言い寄っている相手から冷たく突き放されたらひどく悲しい。けれどイルカはどこ吹く風で首をかしげる。

「気にするんですか?」

カカシは答えなかった。かわりに、鼻で笑う。

「たいした自信だね」

その含むものに気が付いてイルカは苦笑した。半分は虚勢だが階級も場数も上のカカシが相手だ。そのくらいしないと対等に渡り合えない。女子どものように弱々しい擬態で庇護欲を煽ろうかとも考えたが、どうしたって本物の女には敵いようがないし、なにより彼を相手に卑屈に媚びたくはなかった。

「命がけですんで」

「は、軽くかわしておいてよく言う」

イルカは肩をすくめて、内心の震えを隠す。乾く唇をちろりと舐めた。

それから挑発するようにカカシを見て、視線が合うと素早く近くの空き教室に流してまたカカシに戻す。

「試してみますか」

カカシにとってもイルカにとってもそれはひとつの決着だ。これで失敗したらそれで終わりだ。

「……その気にさせてみな」

探るような慎重な視線に、イルカは口の端だけで笑って見せた。ゆったりとした動作でカカシの手をとると、さて、どうしよう、と考えながら手甲から伸びた白い指先に唇を寄せる。

邪魔にならない程度に伸びた爪先を軽く食みながら、色を刺激する濡れた眼差しでカカシを見上げた。

「触れても?」

「触ってるじゃない」

カカシの苦笑に、イルカは吐息だけで笑った。それから口に含もうとして、ふと顔を上げカカシと向き合った。あるいは最後かもしれないと思うとひとつあることを思い出したのだ。

「カカシさん、好きです」

生真面目な表情で真っ直ぐにカカシを捉えて、その声は真摯だ。邪魔な女を退けても、カカシに気があると呼びかけても、その言葉をきちんと言ったことがなかった。それだけは言っておかなければ後悔する。

「……そんな言葉じゃ、オレは落ちないよ」

カカシは夏場に一日置いた味噌汁でも飲んでしまったかのように眉根を寄せた。

「構いませんよ、言いたかっただけですから」

告白を突っぱねられて、相手に向けるにはあまりにそぐわないその表情は慈愛だ。愛しさがこぼれ出るその眼差しを直視できずにカカシは視線を逸らした。それから握られていた手で逆にイルカの手を取ると、悔しそうに吐き捨てた。

「……アンタは根っから悪い男だよ」

手を引かれて歩きながらイルカは笑った。

「あなたもだまされてみたらいいんですよ、俺が誠実な男だってわかりますから」