ためいきがひとつ、カカシの顔半分を覆う口布を突き破って落ちた。
ちょうどその場に居合わせたサクラが聞きとがめカカシをのぞきこんだ。
「あら、カカシ先生も恋をしているの?」
冠する名の通りの淡い桜色の髪が揺れた。
「こい?」
おかしな言葉を聞いてカカシは眉をはねあげたが、斜めがけにした額宛に隠されてわずかにまぶたがあがるのしか見えなかった。
「ためいきつくと幸せが逃げちゃいますよ」
カカシは口布の下で苦笑した。
「なんで恋だと思うの」
「あら先生、女は甘く見るもんじゃないわ」
サクラは鼻をならした。
「最近ね、サスケくんもそんなためいきつくんです。遠くをみつめてたり物思いに耽ったり、すぐ側に行っても声をかけるまで気づかないんですよ。それで今の先生みたいに切ない吐息をもらすの。これを恋と言わずになんというの! もう気になって気になって夜も眠れないわ、相手は誰なのかしら!」
胸の前で拳を握って身をよじるサクラにカカシは出会ったころと変わらない、と思った。あのころも忍術より恋愛だった。ただし今はその忍術も高度な医療忍術まで修めるところまでに達している。
「おまえね、サクラ、じきに結婚する娘がどうして昔の男なんて気にするの」
呆れるカカシに、サクラは胸をはった。
「それとこれとは話が違うもの!」
待機所を出て横目で受付所をのぞいたカカシは、少し期待が外れてため息をついた。どうやら今日は受付にはいないらしい。
「ため息ですか。幸せが逃げてしまいますよカカシ先生」
不意を付かれてカカシは驚いたが、やはり表情は斜め掛けの額宛と口布に隠されて、ただ泰然と振り返る姿だけが人の知るところだ。
「なんですかそれ、はやってるんですか」
そのセリフを聞くのは今日二度目だ。カカシが苦笑するとイルカは声を立てて笑った。
「そんなため息付いて、カカシ先生はひょっとして受付にいいこがいるんですか」
これも二度目だ。どうして誰も彼も同じことをいうのか。
「んー、アナタが先生だからですかね」
「え、私のせいですか?」
カカシとは違い横一線に鼻を渡る傷をさらしているイルカは素直に驚いた表情を見せた。
「あ、いや、違います。先ほど同じことをサクラに言われましてね。だからアナタがあの子の先生だからかと思ったんです」
「はは、なんだ、いや、違いますよ。カカシ先生が分かりやす過ぎるだけでしょう」
「まいりましたね」
後ろ頭に左手をやって照れて見せながら、もう片方の手をさりげなくイルカの腕にやり歩くのを促した。玄関口へと向かう。
「これから帰るんですか」
「ええ、そうです。カカシ先生も今お帰りですか、お疲れさまです」
今日は待機だけだ。おそらくイルカは一日元気の有り余るアカデミーの子ども達を相手に声を張り上げ駆け回ったことだろう。疲れるというなら隣で穏やかに笑い顔を作るこの男の方が疲れているはずだ。
不意に、傷の残る穏やかなその顔から笑いを剥いでやりたい衝動がカカシのうちで起こった。
忍びに似ず表情豊かなイルカの表情が抜け落ちる一瞬をカカシは知っている。その下に潜む疲れに老け込む顔が見たい。
その理不尽な衝動はたびたびカカシを襲う。
唇が歪むのは想像の愉悦のためか自嘲のためか、幸い口布がそれを覆い隠した。
「イルカ先生こそ、お疲れさまです。子どもたちの相手は大変でしょう」
衝動を舌の上で転がしてはぐらかした。慣れたものだと自分では思う。しかしはぐらかしてもなくなるわけではない。
「はは、好きでやってることですので始末におえないんですが」
イルカは鼻を走る傷に手をやってかいた。こんなしぐさをイルカは割りとする。決して珍しくはないその動作に、どうしてかカカシの足は止まる。つられてイルカも足を止めた。廊下の窓から差す西日がイルカを彩った。それはカカシに血の色を簡単に連想させた。
その傷を引き裂いたらイルカはどう顔を歪めて見せるのだろう。
衝動がはぐらかされている時間は短い。己の意識を取り戻した衝動はカカシの手をのっとりイルカの傷へ伸びた。
赤みを帯びたイルカの顔のすぐ側で自分の手甲がはじいた光で我に返った。イルカの傷をえぐるはずだった親指の、爪ではなく腹を押し当てた。緩慢な動きでイルカの左半分の傷跡を優しく辿って離れた。
穏やかな笑顔が無表情に変わろうとする一瞬を取り繕いイルカは困惑を顔面に乗せた。それから自分の傷の辺りへ手を伸ばした。
「すみません、なにかついていましたか」
「ええ、傷が」
それと分かるように意識してカカシは笑った。イルカはからかわれたことを怒って見せればいいのか笑ってしまえばいいのか判断しかねてあいまいに視線を逸らした。
「お人が悪い」
そのまま話題を変えようとイルカが息を吸い込んだその間に割り込んでカカシは先回りした。
「イルカ先生はこの後お暇ですか? ちょっと付き合って欲しいんですけど」
ポケットにしまっていた手を取り出すと猪口を傾けるしぐさでイルカをうかがう。返事を待つ振りをして、それからさも残念そうに付け足した。
「あ、家で奥さんが待ってるんでしたっけ、そういえば」
先週から二人目の出産のために里帰りしていることは承知の上だ。まだ幼い息子もつれて行ったのでイルカの家で彼の帰りを待つ者はいない。
「いえ、お付き合いできますよ。今実家に帰してるんで。二人目が生まれるんです」
照れくさそうに笑ったイルカは幸福の具現者だった。
サクラやイルカによれば恋をしているらしいが、もしそのとおりだとして、カカシの心当たりはイルカしかいない。ため息が漏れるのは、決まってイルカのことを考えているときだ。けれどそれはきっとサクラが思うような甘く切ない感傷からくるものではない。
自分の妄想に呆れて出てくるのだ。
イルカの結婚は見合いだ。断れない筋からの縁談だった。二人の間に恋愛はなかった。それでもイルカが妻や子どもに愛情を注いでいることは一目で分かる。慈しみ、愛しみ、イルカが支え、イルカの拠りどころとなる、イルカの家族だ。
独身の頃多かった残業は減り、まっすぐ家に帰ると子どもを抱き上げ出迎えた妻にキスをする。休みは家族で出かけたり家事を手伝ったりと家族のために忙しく穏やかな日々を送っている。
誰が見てもイルカの家庭は暖かく幸せに見えるだろう。
斜めから粗を探そうとするカカシの目にもそう映る。
それに嫉妬するかといえばカカシ自身首をひねるところだ。しかし、自分でもどうしようもない衝動があるのは確かだった。
どうしてそんなことを思うのか自分で分からない。
けれど、傷つけたい。奪いたい。跪かせて、支配したい。
血の一滴まで絞りつくして、ぼろ雑巾のようになっても最後の一切れまで奪いつくす。荒々しくいたぶり、泣いて許しを請う姿を想像し、カカシの気分は高揚する。
握りつぶして腕の中で粉々にできたらどんなにか素晴らしいだろう。
そんなわけのわからない衝動が突き上げて、カカシの理性は異常だと警告音を鳴らす。
こみ上げる高揚感と危機感はカカシにとってどちらも正しい。
そのせめぎ合いが、ただ、くるしい。
苦しくて、あんまり苦しくなるから、全てが馬鹿らしくなって、そんな妄想をする自分を突き放したい気分になる。現実、そんなことができるわけがない。馬鹿だと笑って、自分の気持ちも妄想も全てを忘れてしまえばいいと半ば自棄になる。それこそ無理な話だ。カカシの理性を突き破っていたずらな両手がイルカの首を絞めるよりも難しい。そんな出口のない思考の全てに呆れる。
恋、か。
カカシはためいきを落とすと低く笑った。
恋なんてかわいいものだろうか。
特別に鍛え抜かれた肉体と精神をもってしても持て余す、これが。
「何を笑ってらっしゃるんですか、カカシ先生」
イルカは口布を下ろした遮るもののないカカシの素顔を覗き込んで言った。酒に上気したイルカの頬は微酔に軽く緩んでいる。
常よりも無防備なその頬を、引き裂きたい衝動ではなく熱を確かめたいと思うのは、カカシ自身が酒精に侵されているためだろう。
だってほら、ただ触りたくて手が伸びる。
カカシは自分を笑った。普段は傷つけるために伸びる手をやっとのこと触れる程度に留めているのに、ただ触りたいだけなど、自分がおかしくなったのではないかと心配になったのがおかしかった。
ふつう、恋だとしたらこれが正しい衝動だろうと思ったのだ。
イルカはその笑いをまたからかわれていると思い憮然とした。それからすぐに思いなおして人の悪い笑みを浮かべた。逆にからかってやろうと思ったのだ。
「また傷がついていますか」
虚をつかれてカカシが鷹揚に瞬きをするとイルカはしてやったりと満面の笑顔だ。
今度は得意げなイルカに対する笑いがこみ上げてきて、カカシはイルカがしたように人の悪い笑みで返した。
「ざんねん、おさかなでした!」
豪快にかぶりついていた魚の皮を親指で拭い取ると、イルカの目の前に突きつけた。軽やかに笑って、カカシはその食べかすを言葉を失って開閉しているイルカの口へ強引に押し込んだ。
湿って生ぬるい感触がカカシを拒絶するようにこわばった。身を引こうとしたイルカの顎をとらえるとその舌に必要以上に親指を擦り付けた。うろたえるイルカの表情を堪能してから解放する。
「カカシ先生!」
ほの赤かった頬をさらに染めてイルカは声を荒げた。
からからと笑ってカカシは手を振った。イルカの唾液に濡れた親指だけが空気に涼しい。
「オトウサンが食べ物を粗末にしたらだめですよ」
「ふつうに言ってくださいよ!」
頬を押さえてわめくイルカをひとしきり笑って、カカシはてらてらと光る親指を見つめてふと冷静に返った。皿を避けてため息と共に倒れこむ。木材のテーブルが火照った頬を冷やした。
目の前には水滴に濡れたグラス。その向こうのふてくされたイルカ。
もうひとつ、今度は小さくため息を落とした。それでも隠すものもなくもれた息は向かいに座るイルカにも届いたようで、ちらりと視線をよこすのが見えた。
「ねえイルカ先生、先生は恋をしたことありますか」
カカシは問いかけたが、肯定も否定も必要なかった。グラスを流れた水滴を見て、重く感じてまぶたを下ろした。
「私は昔、恋をしましたよ。かわいい子でした。その子のことを考えると、私はとてもしあわせで優しい気持ちになりました。それまで自分のことで手一杯だったのに、誰でもに優しくできるような気さえしたんですよ」
そういって目をあけたとき、グラスの向こうのイルカはふてくされていたのも忘れて、わかりますとでも言いたげに、したり顔で笑って頷いた。
カカシは視線をグラスに移した。
「いま、あなたの目から見ると私は恋をしているようにみえますか。先ほどそう言われましたが」
「ええ、そうですね。なかなか歯がゆい恋のように見えました。受付の子なんですか? 告白はしてないんですか? カカシ先生に言い寄られて断る人なんでいなさそうですもんねえ」
人事のようにいうイルカにカカシは渇いた笑いが漏れた。
「馬鹿おっしゃい、少しも相手にされませんよ。ま、受付の人といえばそうですけどね」
「わ、本当ですか、誰です、おれにできることなら協力しますよ!」
身を乗り出して幾人かの名前を挙げるイルカを下から見上げながら、なんて鈍感な男だ、とカカシは思った。それから、鈍感を装っているのか、と疑った。カカシは衝動を紛らわすためによくイルカの頬に手を伸ばすが、客観的に見て不自然だろう。カカシのため息の原因が自分だと知っていて牽制しているのだろうか。
もっとも、その違いに意味があるとすれば、カカシの理性がイルカをどうこうしてはいけないと訴えない場合においてだろう。
「ふふ、でもそんなんじゃないですよ、恋なんかじゃないです」
「またまた、そんなテレなくても」
恋をしてると思っている相手があんただと言ったらそのへらへらした顔は血の気でも引いてこわばるだろうか。見てみたい気もした。言わないが。
「そうじゃなくて、ホントですよ。相手の幸せなんかよりも自分が奪いたい気持ちの方が強くてどう思われてもいーから自分のものにしたいなんて、そんなのは恋じゃないでしょ」
「……顔に似合わずカカシ先生って情熱的なひとなんですね。そこまで惚れられる人がいるなんて」
恋じゃないといっているのに。混ぜ返すイルカにカカシの唇は少し尖った。
「先生にだって奥さんがいるじゃない」
カカシの拗ねた小さな声に苦笑しそうになったイルカは、それをごまかすために酒をなめた。
「おれをうらやむならカカシ先生だって告白したらいいんですよ。もったいぶって隠してるその顔見せりゃあ大丈夫です」
あんたを壊したいです。ぐちゃぐちゃにしたいです。
言えばそれだけでカカシの欲望は少しとはいえ満たされることになるだろう。
「はは、そんなことだめです、だめですよ、イルカ先生」
カカシは疲れを感じて、は、と息を吐いた。
「あなたは先生だから、きっと正しい答えをご存知でしょうね」
それが本当に道徳的にとか社会的にとか一般的に正しいことでなくともよかった。
うっかり早まって馬鹿なことをしてしまう前に打ち砕いて欲しかった。
「ねえ先生、先生ならどうしますか。相手には家庭もあって、家族を愛していて、しあわせそうで、自分が関わったら相手が築いた大切なもの全部を破滅させることがわかってて、でも後から後からわきあがる衝動が膨れ上がるばかりなんです。ため息なんかで減ってく幸せなんて端からないんです。そんなとき先生はどうしますか。ああ、やっぱり先生だから身を引くんでしょうね」
グラスから視線を移して見上げたイルカにそれまでのにこやかさはなかった。表情を失ったイルカの視線に暗い光がよぎり、すぐに消えた。
肯定なのか否定なのか、不意にカカシは自分が何を期待しているのか分からなくなった。
酒のためだけではない熱っぽいカカシの視線にイルカは苦笑した。酒をあおる。ちろりと赤い舌が下唇をねぶった。
隠微なその表情からはなにを考えているのかわからなかった。
ただ、
「家庭と恋愛は別でしょう」
イルカの湿ったくちびるが、誘っているように見えた。