セクハラ上司

最近オレにはある習慣がある。

ある男の身なりチェックだ。オレはいつでも彼の身なりをチェックしているが、彼の身なりは大抵整っている。黒い髪はきれいに後ろに撫で付けてあるし、白のシャツはきっちりアイロンが当ててあり皺一つない。背広にもしみ一つ、糸くず一つない。ネクタイだって歪んでいないし、靴もいつもきれいな光沢を放っていて手入れが行き届いている。

恥ずかしくない身なりの男を何が目的に観察しているかというと、つまりは荒探しだ。


自分でもおかしいと思ったが、オレはどうやら恋をした。

最初は気のせいかと思った。しかし、彼が視界をよぎると勝手に体が反応するので、とまどいながらもその事実を認めた。そうすると、その先は坂道を転がるようにころころと勝手に一人歩きしだした恋心が彼を手に入れたいと叫ぶようになった。

それがあまりにもどかしく、また苦しく、どうにも抜き差しならなくなったので、彼の上司であるという己の立場を利用して出世を盾に迫ってみた。だって彼には奥さんがいて、正面から迫っても効果がないと思ったからだ。それに、もしもこれで落ちるような男ならいっそきれいに気持ちも冷めると思った。

手に入れたいと願いつつ、気持ちの冷めるのに期待した。オレはただ、このどうにもならない状況を変えたかっただけだったのだと思う。

そしたらどうだ。完全にオレの負けだった。

何を持って負けかなんて明確な基準はないが、とにかく負けた気持ちになったのだ。

なぜなら彼は、オレの威しまがいの告白をデスクに向かっているときのような硬い顔つきで聞いた後に、三つくらい呼吸をおいて、いや、オレにはひどく長い時間のように感じたんだが、とにかくしばらく黙って考えてから言ったのだ。

「いえ、あなたはそんなことをする人ではありません」

オレを見返す彼の視線はひどく穏やかで、逆にこっちが慌ててしまった。

「なんでそんなことあんたが自信ありげに言うんですか」

「あなたの仕事振りは方々で評判になっていますし、私自身がこの目で見ているからです。あなたは部下に平等に機会を与えるし、正当な評価をなさる。それに、」

彼は思わせぶりに言葉を区切り、それまでの穏やかさとは裏腹の顔で明確な意図を持って笑ったのだ。その笑みはまさにニヤリ、と表現するのが相応しい。

「そんなものに頼らなければならないほど魅力のない人ではない」

オレは言葉に詰まって、それから長い時間を掛けてようやく喉の奥から震える声を絞り出した。

「あんた、煽ってるの、それ」

「まさか」

間髪いれずにおどけて返す彼が憎々しかった。

「私にはけっこうかわいい奥さんがいますから」

「いうね」

「事実ですから」

飄々と言ってのける彼に、オレは白旗を揚げるしかなかった。

だってそんなふうに信頼されていると知ったら、違う意味でも嬉しい。

「ま、いいよ。じゃあけっこうかわいい奥さんともの足りなくなったら、いつでもオレのところへおいで。とびきりの刺激をあげるよ」

「もの足りなくなったら考えますよ」

そういって颯爽と去っていく彼の小憎らしさといったら今でも忘れられない。

結局、彼を手に入れることはできず、かといって、気持ちは冷めるどころか以前よりも強く彼を求める結果になった。


それ以来、一つの習慣ができた。

要するに好きな男の荒探しだ。隙があればいつでも付け入ることができるように、そして付け入る隙を他の誰にも与えないようにするためだ。そのために彼が出勤してくる時間に合わせて出勤するオレはけっこういじらしい。

そろそろ掛けられるだろう声に期待している自分に少し苦笑を覚える。それでも心は裏腹に緊張している。

「おはようございます」

そのあいさつに振り返る一瞬にどれだけ神経をそそいで平静を保っているか、この男はきっと知らないだろう。

「おはよう」

それから上から下までなめるように見回す。

「けっこうかわいい奥さんとけんかでもしたの」

「朝っぱらからなんですか。けんかなんてしてませんよ」

「歪んでる」

ちょっと腕を引いて立ち止まらせるとオレは彼のネクタイを整えた。といってもそれほど歪んでいたわけではない。が、オレの目はごまかせない。

「ちょっと実家に帰ってるんですよ」

憮然とする彼の顔はどこか子どもっぽくてなかなかかわいい。

「けんか?」

「だから違います。義母が腰を痛めたので家事の手伝いに帰っただけです」

「なんだ、つまらん」

心底思って言ったら、彼も、

「それはこっちのせりふですよ」

と心底つまらなさそうに言ったので、

「じゃあオレがつめてあげるよ」

と流し目をくれてやった。そうしたら彼は、

「セクハラは止めてください」

と言ってオレの手からすり抜けて先に行ってしまった。

オレはそのつれない背中を見送りながら、靴を曇らすわずかな埃にもけっこうかわいい奥さんの不在を確認して喜ぶ自分をとても憐れだと思った。

それでも今はこの憐れな自分がけっこう楽しいと思う。状況を変えることに失敗したのでとりあえず今のところは恋をしている自分を楽しむことにしたのだ。

ま、いつまでもこのままでいるつもりは毛頭ないが。