落日

生きてきた三十数年の、大いなる流れからしたら瞬きほどに短く、しかし己のおそらく一生にしてみればそう短くもない年月のなかでオレは数多の死を見つめてきた。

その多くはオレ自身で生み出したもので、おかげで同年代の、あるいは倍以上生きた者たちの中の、誰よりも死に近い場所で生きてきた。物心つく頃には里屈指の忍びである父親に死を操る道具で鍛えられ、同じ年の子どもたちがのん気に学校に通っているときには忍社会の中である一定の地位につきかなり自在に死を操っていた。

だからオレはすぐにわかった。いや、アカデミーに入ったばかりの子どもでもわかるだろう。目の前の寝台で起き上がってオレを迎えたこの男、うみのイルカが死に向かおうとしていることは。それほど目の前の男は弱って見えた。

顔面の血色は寝巻きの袖からのぞく痛々しげに巻きつけられた白の包帯のようであったし、頬はこけて濃い影ができていた。薄い唇はゆるやかに笑みの形を作ったが土のような色をして、きっと冷たい。寝巻きに隠れてもなお身体は薄く筋や肉が随分と落ちているのが分かった。ここはオレの見慣れた戦場ではなかったが、うみのイルカには確かに死相が見て取れた。

もう助かる見込みも無いだろう。うみのイルカにもそれはわかっている事実だった。

それなのにうみのイルカの表情は穏やかで、彼がこうなるより以前に会ったときとそう変わりなく見えた。

オレの見てきた多くの死を意識した人間は、怯え、戸惑い、あるいは怒り、持てる手段の限りを尽くし生命を懇願した。

ひきかえうみのイルカは凪いだ海に浮かぶ船のようで死の荒波からは無関係のように見えた。船は難破しているのに救助も求めず、尽きていくパンに頓着せず、日がな一日空を見て雲を見て海を見て、さも永遠に続く今日であるかのごとくに見えた。

他人事のように自分の日常や近辺を話すうみのイルカにあいづちを打っていると突然強い光が目を射たので、オレは顔を上げた。大きくとられた窓から直視しがたい強さでもって太陽の最後の光が室内を黄金色に染めた。その光にうみのイルカも視線を外に転じた。

窓のすぐ脇に立つ木々を茂らす葉っぱから地面に生える名もない雑草までもが陽にやかれまるで緑に燃えるようだ。

燃える緑の向こうでは蒼く連なる山々の合間で沈みゆく太陽が燦然と光り輝いていた。

空は茜に染まるのにそれはまさしく光を放ち、色を認識するよりも前にただ光と感じる。

純粋な、もっとも力に満ちた、最後の、エネルギー。ひかり。

遠く山の合間に足を沈めた太陽がいっそう強く光を放って視界をさらう。

姿を隠す直前のその光は、奪いつくす、すべてのいのち。

最後の光に照らされた世界の向こうで、湖面に光が巡るようにくるりと世界を回転すると急速に光は失速し、消えた。

木も草も消火され本来の色を取り戻した。

名残の陽はそれでも未練がましく青を侵し、空をうつしたうみのイルカのシーツにほの赤い陰影を刻んだ。それはシーツばかりでなく振り返ったうみのイルカの、今は解かれ肩にかかる髪の輪郭も染めた。薄暗くなった部屋のなかでその赤だけが鮮やかだった。

不意にうみのイルカの目尻が光り、おれはそれを残光だと思った。薄ぐらな赤の中で、沈む命の最後のエネルギーがうみのイルカの瞳に宿り強烈な光りを放っていた。


「おれ、死にたくないです」

「もっと、生きていたいです」


その瞳の光りに反して弱々しく響くうみのイルカの声に、手を伸ばしたのはどうしてだったか。

泣いているのかと思って触れた頬には変わりなく、花に引き寄せられる蝶のようにうみのイルカの唇にとまった。反射的に一瞬引かれた顎は、次の瞬間には進んでおしあてられた。

弱く伸ばされたうみのイルカの手がおれの服をつかむと、それを合図に強く求められてオレはそれに応えた。冷たいと思ったうみのイルカの唇は予想に反して熱かった。

うみのイルカの頬を捉えた手は次第に下り寝巻きの前を割って今はもう厚みのなくなった胸をたどる。そのまま白い包帯に巻かれた脇腹に手を添えて力を加えると、オレの背中に回った彼の手は痛みのために握り締められた。

「うっ」

歪めた顔をオレの肩口に押し当てて、頬のかわりにオレの肩を濡らす。そしてくぐもった声で、

「いたい、まだ生きたい、死んでいくのはいやだ」

と繰り返し、棒のような細い腕のどこにそんな力があるのかと不思議に思うくらいにオレを掻き抱いた。

こんな男を抱くのは、とても無理だと思った。

この程度の刺激で痛む傷を抱えながら結合し揺さぶったら、それこそ死んでしまうと思った。

それでも彼の唇はオレを求め、またオレ自身も彼を求めた。死をおしてもそうしなければならないと思った。

うみのイルカの寝巻きを肌蹴させると痩せた肌に吸い付き抱きしめ、身体をひらき押し入った。

その行為は自殺行為だったが、オレたちは自殺するためにそうしたのではない。

全身で生きたいと叫ぶうみのイルカ。

必死に生を懇願する彼に、おれは彼を証明しているのだ。

生きているのだと。

そのためにオレたちは肌を重ねるのだ。

そしてそのためにいのちを削るのだ。

今まさに生きていて、死んでいく。

ここにあるのは、ただ、いのち。

いのちだけだ。

それでもオレは、いや、だからこそか。繋がったところを通してオレのいのちが彼のいのちに変わったらいいのに、と詮無いことを思った。そして彼がいのちを求めるのと同じ強さで打ちつけた。

彼は泣いた。痛みなのか快感なのか、あるいは身体への刺激など関係ないのか。ただ「生きたい」と言って泣いた。

相手の顔も薄闇が覆うと、オレの息遣いと彼のあえぎ声と肉がぶつかる音だけが室内を満たした。


それから幾日かあとにうみのイルカの訃報は届いた。