しばらくぶりにカカシが家に帰ると、家と言っても彼自身の家ではなく恋人の家だが、普段は雑然とした部屋が閑散とした冷たい空気で出迎えた。
「イルカ先生?」
カカシの呼び掛けにむろん返事はない。勝手知ったるなんとやらでカカシは居間を覗き寝室を窺い台所でまたひとつ呼び掛けた。沈黙の返事を聞きながら冷蔵庫を開けると期待した光が漏れない。流しには乾いたたらいがふせてあり、生ゴミはかけらもない。
それから洗濯物を溜めるイルカのことだからと期待して洗濯機の蓋を開けた。そこには水の一滴もなく、しんと人の気配のない空間にほんの少し拒絶を感じて、いよいよカカシは寂しくなった。
ぺたりと頬を壁に張り付け落胆の吐息を落としてようやく気づくのは、
「先生も任務?間の悪い」
いくら教師といえどイルカだとて忍びなのだから任務があっても不思議ではないのに、ここにくれば当たり前にいると思っていた。
今度は諦めのため息をひとつつくと壁から剥がれて居間へ行く。押し入れからイルカが愛用している座布団を取り出すと、顔を埋めて深呼吸だ。胸一杯に吸い込んでふと下を見るとごみ箱の中に丸めた紙がひとつだけぽつねんと転がっているのが気を引いた。しゃがみ込み、思わず拾いあげると、捨て置けぬ文字が目に飛び込んだ。
「遺書」
嫌な気持ちが広がり、カカシは恐る恐る震える指先でしわくちゃの紙を伸ばした。 たしかに表書きは遺書と書かれている。
イルカが赴いた任務はそれほど危険なものなのだろうか?
不安が胸を覆う。なかったことと握り潰そうとする手を叱咤してカカシは「遺書」を広げた。
「
こんばんは、カカシさん。
元気ですか、ちゃんと飯は食っていますか、眠っていますか?
案外思い詰めるあなたのことだから、おれは安心して死んでいられませんね。
あなたより先に死ぬことなんて考えていなかったけれど、何が起こるかわからないのが人生です。遺書なんて宛てる相手にあなたしか思い付きませんでした。
といってもおれには人に残すような財産もありませんし、ご存知の通り特別世話を頼んでおきたい身内もありません。おれの心配といえばあなたが泣きはしないかということぐらいです(どうか泣かないでくださいね)。
いや、どうか一度だけおれのために泣いてください。でもその一度だけで十分です。
わがままだと責めないでください。そうすればおれはきっとすぐに成仏できるでしょう。
おれにはあなたのために残せるものがありません。それが今は残念でなりません。形にして残すというのはくだらないようでいてとても大切ですね。
もしもおれに残せるものがあるとするならば、
」
判別できる文字はそこまでだ。後は黒く塗り潰されている。
書いたものを打ち消さねばならぬほど感情が乱れていたのだろうか。
それほど任務は危険なものだったのか。
任務に出てどれくらいたつのか。
ひょっとしたら、事態は切迫しているのかもしれない。
カカシはいてもたってもいられなくなり、「遺書」をにぎりしめて飛び出した。向かう先は受付所だ。
脅してでも聞き出すつもりで乗り込んだ決死の形相のカカシに周囲は何事かと緊張を走らせた。
「うみのイルカはどこ」
受付の男はふたり顔を見合わせた。それから焦れたカカシの殺さんばかりの勢いに押されるように口を開いた。
「うみのなら任務で那賀棚へ」
それだけ聞くとカカシは、「あいつ何やらかしたんだ」という疑問とともに呆然とする一同を置き去りにした。
那賀棚は木の葉から大人の足で一週間かかる。忍びの足なら三日だ。カカシは一昼夜で駆けた。那賀棚につくと八方に忍犬を放った。
ほどなくして上がった呼び声にカカシはそちらへ急行した。
とある建物を示す犬を労い、自身は易々と侵入を果たした。自慢の鼻で居場所をつきとめる。あたりに他の気配がないことを確認するとイルカの気配のする部屋に飛び込ん。
「イルカ!」
無事に生きているイルカの姿をみたら衝動的に抱きしめていた。
「ああよかった無事だった」
抱きしめた背中をまさぐった。それから訳もわからずに呆然とするイルカの顔を見るに至ってようやくカカシは怪訝に眉根を寄せた。
「イルカ先生?」
「はあ。あんた、こんなところになにしにきたんです?」
「なにって・・・」
言い淀んで、ふと冷静に返った。イルカの体が妙に上気して温かい。よくみれば髪もしめっていることに気付いてカカシは眉間にきつく皺を作った。
「イルカ先生は任務ですよね?」
「ええ、まあ」
「それもかなり危険な」
「はは、誰が言ったんですそんなこと。カカシさんじゃあるまいし、そんなの回ってくるわけないじゃないですか」
からりと一笑に付すイルカにカカシは「遺書」を取り出した。すると一瞬でイルカの表情が固まった。見る間に顔中を赤くして乾いた声で笑った。
「はは、は、や、やだなカカシさん、そんなのどうして」
カカシは笑わずに真摯な面持ちでイルカの答えを待つ。その様子にごまかせないと判断したのか、イルカはそっぽを向いて鼻の傷を掻いた。
「ちょっと書いてみたくなったんです」
「ちょっと!? あなたね! 人がどれほど心配したと思ってるんです、それをちょっと書きたかったですって?」
カカシの眉が器用に跳ね上がった。声を荒げて抗議するとイルカはむっとしたようすで開き直った。
「おれの勝手です。あんたこそなんです人が捨てたものを勝手に」
イルカがしわくちゃの遺書を奪い返そうと伸ばした腕をとって、カカシは当てつけがましい大きな鼻息を飛ばした。それから打って変わって力の抜けた様子で訴えた。
「勝手ですけどね。…心配しました」
そう出られるとイルカも弱いもので、素直に謝った。
「…ほんとうは残したかったんです」
「何をですか?」
「なにかを。いや、おれはなにももってないけど、だから気持ちだけでも残そうかなと」
カカシはしげしげとイルカを見、それからくしゃくしゃの「遺書」を広げて、頭からゆっくり読み直した。そして黒く塗り潰されているところをためつすがめつ見ると、顔をあげた。
「ここ消してありますけど、残したかったんじゃないんですか」
ふしぎそうに首をかしげるカカシがさも大切そうにそこを撫でるのを見てイルカは仏頂面だ。
「アカデミーは長期休暇中だしカカシさんはいないし、そんなところに温泉地に簡単な任務があって、じゃあついでに休みを貰っていいか、って聞いたらいいって言うし。こんな休養を兼ねたお使い任務ですよ。なんか、……」
「なんか?」
口ごもったイルカにカカシは優しく催促した。イルカは仏頂面を更に渋くさせ、口のなかでもごもごと答えた。
その声はこもって聞き取りにくかったが、カカシの優秀な耳は確かに「ラブレターみたいで」というイルカの声を拾った。
「もういいだろ」と再び「遺書」に伸ばされた手をするりとかわし、カカシは後ろ手にそれをポーチの中の愛読書の間にしまった。
一度は書いておきながら我に返ると恥ずかしくなって消したそこに何と書いたのかはイルカは絶対にしゃべらないだろう。それでも残したかった気持ちがラブレターのようなら、それはイルカにとって愛の告白と同義のことが書いてある。イルカがカカシに残したい気持ちは愛情なのだ。
そんなものをみすみす奪い取られるなんてそんなもったいないことはしない。
「イルカ先生はいつまでここにいる予定なの?」
明日と答えが返ってきて、カカシはそのふて腐れた表情にはおかまいなしでこぼれるように笑った。
「じゃあおれも今日から休暇だ。帰りも飛ばせばもう少しいられるでしょ。せっかく温泉に来たんだしね? ゆっくりしっぽりいきましょうかね」