どうしよう、ばかりが頭を占領して思考が堂々巡りだ。
あいたい。でも理由がない。
県外の大学へ進学して半年が経った。レポートと試験のラッシュが終わって、それさえ抜きにしてしまえばさして必要は感じなかったが実家へ帰ってきた。
ひとえに先生に会うためだ。
先生は、高校の先生だ。カカシがつい半年前まで在学していた高校の、生物の先生で、一年だけ授業を受けた。担任ではない。それでもカカシが先生を好きになるには十分だった。
カカシにとって先生は特別な先生だったが、先生にとってカカシは目立つ生徒ではなかった。
カカシはそれでも良かった。朝すれ違ってあいさつをするだけで一日うれしかったし、放課後弱小吹奏楽部を指導する先生を向かいの校舎からそっと見るだけで幸せだった。
それなのに告白をしたのは、卒業式の感傷的な雰囲気に流されたのかもしれない。
卒業してしまえばすぐに忘れてしまう、いや、もうすでに名前も覚えてないのかもしれない、そう思うとカカシはいてもたってもいられなくなった。
先生は驚いた顔をした。その顔を見たときカカシは急に血の気が引くのがわかった。ばかなことを言ったと後悔しそうになる一瞬前に先生は、「そうか、ありがとう」と少し笑った。
それから少し視線を上に流してまたカカシを見ると遠まわしに断った。
「はたけが大人になって、まだ私を覚えていて、もしもそのときになっても気持ちが変わらなかったら、また来なさい」
カカシは泣きたくなった。今のカカシの気持ちのすべてを否定された気がしたからだ。
目頭が熱くなって、俯いた拍子に涙がこぼれそうで、カカシは先生を見返した。
「そんなのはずるいです、先生。先生はきっとオレのことなんて忘れてしまうでしょ」
「それは、はたけ、お前だってたかが一年授業を受けた教師のことなんかすぐに忘れるよ」
先生は困ったように薄く笑った。腹が立ってカカシは声を高くした。
「ばかにしてるんですか? 先生、オレは先生が好きだと言ってるんだ、なんで忘れるんだよ、何で……。先生が好きだ、先生はひどい、オレ、」
息を吸い上げて、唇をかみ締めた。こぼれてしまう。
「おい、泣くやつがあるか、……弱ったな」
慌てて弱りきった声音に惨めな気持ちになってカカシは先生をにらみつけた。
先生をなじる言葉を言いそうになって、言葉を呑んで踵を返した。
すると先生はさらに慌ててカカシの腕をつかんで引き止めた。
「おいばか、そのまま行くなよ、悲しくなるだろ」
オレはもう悲しい、先生だって少しはそうなればいいんだ、という気持ちで視線を向けると、先生は苦笑してカカシの頭を荒っぽく撫でた。
「せっかくの卒業式なんだ、そんな気持ちで帰ったんじゃ3年間全部が急につまらんものになっちまうだろ」
「でも、オレはその3年間思い続けてきた人にふら、ふら、ふられて」
「あー、泣くな泣くな」
先生はカカシから手を離すと腕を組んで考え込んだ。
「はたけ、お前は今日、卒業するけど、でもまだオレの中では生徒なんだ。わかるか?」
先生が何を言い出したのかわからずに、正面から覗き込まれた目を見つめ返した。
「だからな、生徒に告白されても先生としては断るしか思いつかない」
ひとつひとつ確認しながら先生は言った。
「オレはお前をきらいなわけじゃないから、お前が生徒じゃなくなったらオレは始めてお前を一人の人間として考えられるんだ」
「……それは、つまり、今はダメだけど先ならオレと付き合ってくれるの?」
先生は、に、と笑った。ああ、好きだ。
「まあそうゆう可能性もあるわけだ」
「なにそれ」
カカシはへの字口になってそっぽを向いたが、惨めな気持ちはどこかへ行った。先生が、真剣に答えてくれた。カカシを否定されたわけではなかった。
「でも、じゃあオレ、出直してきます」
「うん。いつでもここにいるから。またおいで」
先生は、桜の花びらを舞わす風のようにやわらかく笑みを深くした。
「はい」
とは言ったものの、なんといって会いに行っていいのかわからない。
会いに来ました?
遊びに来ました?
そもそも夏休みで学校にいないのではないか。あの弱小吹奏楽部が夏休みに毎日練習しているとも思えない。
もし会えたとして、忘れられていたらどうしよう?
それは怖い。足がすくむ。
でも会いたい。
ああ、どうしよう?
どうしよう、ばかりが思考を埋め尽くして建設的なことを考えられない。
思考が先に進まないまま、夏休みは半分が終わろうとしている。
ひょっとしたら先生が立ち寄るかも、と偶然に期待して学校の近くのコンビニエンスストアでアルバイトを始めてみたが、まだ一度も会っていない。
「おーい、カカシやってるかい」
「うっせ、熊は山へ帰れ」
商品の整理をするカカシの隣に来て声をかけるのは冷やかしついでに涼みに来た悪友だ。会うのといったら、暇なこの友人や部活帰りの後輩、特に親しくない教師たちだ。
「おいおい、オレは客だぜ」
「そうゆうことは何か買ってから言えっての。お呼びじゃないんだよ」
アスマが適当に手に取ったジャムパンを奪い返して並べる。
ふん、と鼻を鳴らしてアスマはポケットに手を突っ込んだ。
「へーへー、誰ならお呼びなんだよ」
「誰でもいいでしょ」
「……おまえ本当に誰か待ってんのか?」
驚いたようにまじまじと見られて、思わず動きを止めて見返す。
しまったな、と思ったがいまさら取繕っても遅いだろうと、作業を再開してカカシはつぶやいた。
「……いいでしょ別に」
「マジかよ。めんどくせーやつ」
「けなげといって。いらっしゃいませー」
扉に取り付けてある鈴の音が鳴ってそちらを見ると、知った顔がふたつ、みっつあってカカシは少し眉根を寄せた。
入ってきたほうはカカシを見つけると少し笑って手を上げた。
「あ、カカシ先輩だ」
「いらっしゃい、どうしたの、テンゾウ」
カカシの問いに答えたのはテンゾウではなく、彼の後ろから飛び込むように入ってきたナルトだった。
「今日は部の集まりが悪かったからイルカせんせーがアイス奢ってくれるんだってばよ!」
いーだろ、といって冷凍庫の前に立つ。後から入ってきたサクラがその横に立って、「どれにする?」と聞いた。
先生の名前に心臓がはねた。イルカ先生、だって。カカシは少し嫉妬する。お門違いのその感情をごまかすためにカカシは視線をテンゾウに戻すと、
「先生も、くるの?」
声が少し、上ずったかもしれない。
「はい、じき来ますよ」
入り口を凝視する。
先生が。本当に?
どうしよう?
生唾を飲み込む音がやけに耳に近く聞こえて、ひとりでどきりとする。
「カカシ先輩バイト?」
「そう」
「いつからですか?」
「んー、夏休みの間だけ」
人影がふたつ、扉をおして鈴がカロンと涼やかに音をたてる。
ああ、先生だ。どうしよう!
先生はすぐにカカシに気付いて、いつかのようにやわらかく笑った。
それから、「よう」と手をあげると「元気にやってるか」と言った。隣でアスマが「おひさしぶりです」と返事をした。
カカシが何か返事をしなくてはと口を開くよりも前に先生はテンゾウに向かって、「お前も選んでこいよ」と促した。
「あ、先生、オレにも奢ってくださいよ」
ずうずうしく言ったのはアスマだった。はじかれたように振りかえるとアスマはにやりと笑った。
「お、お前は自分で買えよ! つか熊はりんごでもかじってろ」
つかみかからんばかりにカカシが言うのに、のどかな笑い声がかぶさった。
「ははは、しょうがないなあ、選んでこいよ」
「ラッキー」
「あ、おい」
制止の声は冷凍庫へ向かう熊のような背中にあたって落ちた。
「はたけは、いいのか?」
突然自分に向けられた声に、カカシははじかれたように先生に向き直った。
「あ、いや、オレ、バイト中なんで」
「ああ、そうだな。お前、職員室で話題になってたぞ」
「へ、あ、は、そうですか」
「がんばってるみたいじゃないか。でもこんな近くに来てて学校に寄らないとは薄情な奴だな、ってさ」
先生は朗らかに声を立てて笑った。カカシもつられてへらりと笑った。
行きたかったんですけど、行けなかったんです、とは言わない。
格好悪くて、言えない。
「今度、行っていいすか」
「おう、いつでもこいよ。お前なかなか顔見せないからオレの夏休みは終わっちまうよ。お前は長いからいいかもしれんが」
やわらかく細めた目元を見ながら、どきりとする。
それってすこし、期待する。
先生は、ずっと待っていてくれたのだろうか?
だったらどうしよう、うれしすぎる。
「じゃあ明日行きます」
「みんな待ってるぞ」
「……先生は?」
先生は驚いた顔で少し身を引くと、すぐに破顔した。
「もちろん、オレも」
急に恥ずかしくなってカカシは俯いた。耳があつい。
カカシは先生の前から逃げ出したくなって、冷凍庫の前でサクラが、
「ばかねナルト、せっかくおごりなんだから高いやつにしたらいいのよ」
とハーゲンダッツを取り出してナルトに渡しているのに飛びついた。
カカシはおのおの手に持ったアイスを奪い取って、
「ばかか、おまえらガリガリ君で十分だろうが!」
かわりに七本入りの箱を押し付けた。315円だ。
「ちょっとー何すんのよー」
「七本じゃけんかになるってばよ」
「じゃんけんでもしなさいよ」
不平をもらす後輩たちを追い立てて会計を通しながら、カカシは必死になって紙幣と先生の手だけを見た。恥ずかしくて顔が上げられなかった。
帰り際に先生の苦笑がカカシの頭に落ちて、恐る恐る視線だけ上げると先生と目が合った。
先生はじゃあなと言ってカカシの頭を荒っぽく撫でた。
先生が出入り口の鈴を鳴らして出て行くと、アスマがおもしろそうな顔をして残っていた。
「待ち人来るってか。つかどんな猫飼ってんだよおめえ」
「……っ! とっとと帰りやがれ!」
「へえへえ」
ニヤニヤしながら出て行くアスマに、絶対からかわれるのだろうなと思った。
ああ、どうしよう。顔から吹き出た熱が、おさまらない。