きみの犬

「子どものない夫婦の慰みと言ったら犬ですよ」

と、人を食った態度でカカシが犬を連れてきた。

無駄なことをしないカカシのことだから忍犬にでもするのだろうと思い好きにさせたが、それにしては薹が立ち過ぎている上に、みすぼらしい体つきをしていた。いつまでたっても忍犬訓練を施さないところをみると、本当に愛玩用なのかもしれない。

それにしては荒んだ空気をまとっている。よく見れば所々に傷跡もあった。

いつまで経っても警戒を解かないその犬にカカシは必要以上に触ろうとはしなかった。ただ犬が必要とする距離の向こうから、人間を相手にするように何遍も話しかけるだけだった。

鉢にドックフードをあけるカカシに、ミカンの皮を剥きながらイルカは尋ねた。

「こいつはひどいことをされていたんですか」

カカシは口元だけで笑って、「感傷的ですかね」と言った。

そんなこともないと言おうと思ったが、カカシにとっては感傷的なことであるのならそんな言葉は空しいもので、またカカシの言葉は別に意見を求めているわけではなくイルカの質問に肯定しているだけなのだから、イルカは別のことを言った。

「なかなか馴れませんね」

「それは仕方ありませんよ。こいつは人に裏切られていますからね、馴れろと言う方が無理な話です」

「まあそうですね。ところでなにしてんですか」

イルカが聞いたのは、カカシが犬用のササミジャーキーをかじっていたからだ。

「なにっていうか、つばつけてるんです。こうすると仲良くなれるんですよ。打ち解けて欲しいなんて傲慢だけど、不信ばかりでぴりぴりして神経すり減らすのはかわいそうじゃないですか。オレを好きになればこいつは幸せになれるよ」

餌鉢を持って犬の方へ行くカカシを盗み見ながら、イルカは確かにその通りだろうと思った。

荒んだ目をしたその犬はカカシが近寄ると警戒して距離をとった。カカシは少しの間餌の前でしゃがんで待ったが、尻尾を股の間に挟んだまま動かない犬に、「ここにおいていくから食えよ」と言い含めると立ち上がった。去っていくカカシを犬はじっと見つめていた。戸は犬が見えるように、犬から見えるように開け放したままだ。

カカシは根っからの犬好きだ。カカシが道行く犬と視線を合わせると犬は嬉しそうに寄ってくるし、犬に伸ばすカカシの手は優しい。

イルカは直接見たことはないが、おそらく彼は忍犬にも深い愛情を注いでいるのだろう。カカシにとって忍犬は手足となって動く便利な道具ではなく、信頼する仲間に違いない。

「カカシさんは犬みたいですよね」

剥いたミカンを頬張りながら深く考えずにイルカは言った。甘酸っぱい果汁が口の中で広がるのを楽しんだ。

カカシはちらりとイルカを見て少し考えた。

「それははじめて言われましたね。猫みたいね、とは言われましたけど」

(みたいね、ね)

イルカは言葉尻に引っかかりを覚えたが、すぐにあほらしいと思い言葉を呑んだ。

「あなた猫背ですもんね。足音ないし」

ほんの少しのその間にカカシはイルカに見えないように苦笑した。逡巡した後に受け流す方を選ぶイルカを淡白なひとだと半ば諦めた気持ちで思う。

それからいくつかまとめて口に放り込むイルカの姿を見て、不意にいたずらな気持ちを起こした。イルカが言ったように足音を立てずに近寄り、咀嚼するイルカの顎をつかむと強引に自分のほうへ向け、口を寄せる。

とっさのことに反応が遅れたイルカの口はなされるがままに開いて、カカシは無遠慮に入り込んだ。酸味のある柑橘の匂いを嗅いで、押しつぶされて半分だけ残る果肉の入った袋を舌で引き寄せる。慌てて抵抗を始めたイルカの舌と遊んでから奪い取ると、舌の上のへろへろになったミカンを存分にイルカに見せ付けて、自分の口の中へしまう。数回噛んで、嚥下する。

「しぶは取ってください」

少し眉根を寄せてカカシが文句をつける。

「何すんですか」

「つばのついたものを食べると仲良くなれるんですよ」

「アンタは犬か!」

声を荒げるイルカにカカシは楽しそうに含み笑いだ。

「だってイルカ先生が言ったんじゃない」

カカシはもう一度イルカの口元に顔を寄せると、今度はべろりと舐めあげた。それから、甘えるように鼻をならして、擦り寄る。

「知ってますか、こうして犬は言うんですよ」

とろけたようなような目をして下から見上げると、鼻にかかった甘い声を出した。

「あなたを信じますよ、あなたに尽くしますよ、あなたになら何をされてもいいですよ」

イルカは少し黙った。しばし考えたあと、ミカンのしぶを食べたカカシのような顔をして、

「信じますよ、で、何をされてもいい、なんて、ひどい脅しですね。それで裏切られて、恨むんですか?」

非難する。カカシは表情を改めた。

「恨むとか恨まないとか、きっとそれは人間の感情ですよ。犬は一途な生き物ですからね、何をされても好きなだけですよ。だから一度主人と認められたら裏切っちゃダメなんです。脅しじゃなくて信頼でしょ、あなたひどいことしたいんですか?」

たとえばそれが本当に信頼だったとして、だとしてもやはり信頼は脅迫に近いとイルカは思ったが、裏切るなという言葉に異論があるわけではなかったので、答える代わりにカカシの頭を労わる手つきで撫でた。

カカシは本当の犬がするようにイルカの手に自分の頭を押し付けると、嬉しそうに笑った。それから許可を得たものとして押し倒そうとするのを、イルカは背後に片手をついて押しとどめると、にっこりと笑う。

「バター犬は立派な虐待ですよ」

「じゃあ人間風に仕切りなおしましょうか」

機嫌よさそうにカカシが切り返すと、どうぞ、とイルカは顎を反らして促した。

カカシは差し出された唇に自分の唇を落とす。やわらかく食んでから、誘うように引くと、イルカは追いかけた。濡れた音を立てて、逆にカカシを押し倒す。カカシはイルカのわき腹をなで上げるように服を脱がせながら体を起こし、首筋から舌を這わして上ってゆく。そして、たどりついた耳たぶを甘く噛んで、低くささやく。

「あなたになら何をされてもいいよ」

「ナニをするのはあなたでしょ。どこが人間風なんですか」

本気を滲ませていった言葉は軽くイルカに流された。

「じゃあ、あなたに尽くしますよ」

イルカが笑おうとするより先にカカシは体を入れ替え上から囲い込んで、彼特有の穏やかで底の見えない水面のような目をして、彼がもつ表情の中で一番優しい顔になった。

「あなたを好きになって、オレは幸せです」

イルカは言葉を見失った。直視に堪えなくてまぶたを下ろすと、のどの奥から言葉を拾った。

「ばか、もういいから、黙って」

カカシの本気を冗談に紛らわし、頭を引き寄せると唇を塞いだ。

ひたむきな好意を向けられて、それで裏切る人間がいるのなら、そいつは人でなしだ、イルカは思ったが、それよりも湧き上がる感情のために相手を求めることのほうが重要だった。