アルバイトが終わるとカカシは学校から少し離れたところで先生が出てくるのを待つ。夜のほうが時給はいいが、アルバイトを始めた目的は先生に会うことだったので、シフトは先生の時間に合わせて昼間の時間帯だ。
二学期も始まって、何日か前まで明るかった空が、同じ時間でも今はもう薄暗い。字の見え難くなった本を閉じて変わりに携帯電話を開く。ぱっと光った画面の時計を確認する。18:43、先生が教員玄関から出てくる。カカシは立ち上がると、先生に向かって歩み寄った。
「先生、お疲れさまです」
はにかんで笑うカカシの姿を見つけて、先生は少し目を細めて「お疲れ」とカカシを迎えた。
「途中までご一緒していいですか」
「もちろん」
毎日同じように改まって聞くカカシがおかしくて先生は少し笑った。
「はたけは律儀なやつだなあ。カンシンカンシン」
先生はカカシの頭に手をやると少し荒っぽく髪を乱した。
突然の接触に驚いてカカシは耳まで赤く染めてされるままになった。俯いた視界に映るのは黒い鞄を握る先生の左手だ。程よく日に焼けた手の甲には脈々と流れる血管が浮き出ている。
カカシが先生の手の甲から視線を放すのと同じタイミングで先生は最後に二度カカシの頭を軽く叩くと先を歩き始めた。小走りで三歩、慌てて後を追うと先生から半歩送れて隣を歩く。
「ずいぶん暗くなったなあ」
空を見上げる先生の横顔を見上げてカカシは「そうですね」と相槌を打った。
「ついこの間まであんなに明るかったのにな。昼間暑いようでもやっぱり秋になるんだな、もう九月か」
しみじみとして先生は言った。カカシはどきりとした。
「早いですね、夏休みもあと一月ないですもん」
言いながら心のうちで考えるのは別のことだ。
夏休みももう残りが見えてきて、カカシは今月の十五日で十九才になる。
誕生日だから浮かれるかと言ったらカカシの場合そうではないが、今年はすこし、先生が近い。もちろん、先生はカカシの誕生日など知らないし、だからどうかして欲しいわけではない。
でも、と思う。
その日はちょうど土曜日で、学校は休みだから今のようにアルバイトの帰りに先生を待ち伏せして誘う、なんていうのはできない。
どうにかして約束を取り付けないとその日先生と会うことはない。
「だな。おまえちゃんと宿題やってんのか?」
「やだな、先生。オレ大学生ですよ」
ちりちりと焦る気持ちを横においてカカシは笑った。先生も「そうか?」と笑う。
会いたい。
毎日のようにこうして会っていても、もっと会いたい。
毎日顔が見たい、声が聞きたい。
「それより先生、そろそろ文化祭じゃありませんか?」
「まあ、そうだな。十月の頭くらいだったか?」
「先生なのに聞かないでくださいよ。吹奏楽も何かするんでしょ?」
「そりゃあな、一応文化部だから。そうだ、お前も聴きにこいよ。はたけはヤマトたちとも仲いいんだろ。あいつらも喜ぶんじゃないかなあ」
十月の頭と言ったら大学がもう始まっているが、先生に誘われて断るカカシではない。
「はい、楽しみにしてます」
嬉しそうに笑うカカシを横目で見て先生は口角を少し持ち上げた。薄れていく残照の中、その横顔は余裕があって穏やかで、とても大人に見えて、カカシの胸は高鳴った。
本当に言いたいことを切り出せずにもどかしく思うカカシはまるでこどもだ。
告白をした卒業式の日、先生はカカシに大人になって出直せと言った。そのとき、先生にとってカカシはまだ生徒だったからだ。
カカシにとって先生は先生だが、それは職業を表す言葉ではなく、もう固有名詞だ。
事実上カカシはもう生徒ではない。それでも先生にとってはどうなのだろう?
しばしばカカシは疑問に思う。
それは荒々しく頭を撫でられたり今のように子ども扱いをされるときだ。かわいがられるのは嬉しい。カカシはそれが嫌いではないが、それでもひどく冷静な部分では先生への対応を戸惑わせる。
たしかにカカシは大人ではない。年齢的にも、経済的にも、きっと精神的にもそうだ。 自分で出直すといった手前、まだ大人ではないカカシは果たして先生に対してそういう意味合いで接してもいいのか、と迷う。相手にされるのか、と不安だ。
先生にとって今だ自分が生徒であるならなおさらだ。
結局その日、先生と別れる最後まで誕生日のことを切り出せずに他愛のない話を続けた。
「ねえ、アスマくん」
「んだ、きもちわりい」
手土産がわりにカカシが途中のコンビニで買ってきたちょっとエッチな雑誌をめくりながらアスマは気のない返事をした。自分の部屋の自分のテレビゲームをするようにコントローラーを握っていたカカシも、同じように気のない風に口を開いた。
「先生にとってオレってまだ生徒だと思う?」
「さあな。なんじゃねえの。オレが知るか」
「だよねえ…」
アスマが寝そべるベッドに寄りかかりながら、白熱する画面とは反対にカカシは心在らずだ。敵をなぎ払う騒々しい音が白々しく部屋を賑やかした。
「……先生はそっちの人だったのかよ?」
アスマは少しカカシを盗み見たが、すぐに蠱惑的な微笑を向ける肉感的な唇の女の写真に視線を戻した。
「それこそ知るかよ。偏見はないみたいだったけど。それもまあ、……先生は教師だからただのポーズなのかも知れないけど」
根本的で致命的な理由で先生にとって自分が恋愛の対象にならないと言うのは、やりきれない気持ちと心のどこかが安心するのと、半々だ。
「相手にされないからってそう卑屈になるなよ」
「……そんなんじゃないよ」
その通りのことを言われて、カカシはおもしろくない。そんなのは、自分が一番わかっている。一人でいても考えるのは先生のことばかりで、それも堂々巡りの答えのない自問自答ばかり。考えるうちに腐っていく自分がうっとうしくなったからこうして気分を晴らしに来たと言うのに、一番考えたくないことを、しかも他人から言われたらへこむ。
「まあどうでもいいけどよ。そんな落ち込むほどおまえはまだ何もしちゃいねえだろうが」
「そんなの、………。相手にされてないのに何をしろって?」
カカシは鼻で笑った。テレビ画面では勢いよくコンボ数が重なっていく。
「意識されてねえなら意識させりゃあいいじゃねえか」
つまらなそうにページを繰ってアスマは言った。カカシは驚いて振り返った。コンボはそこで途切れた。
「……なんだよ」
憮然とアスマがカカシに目をやると、カカシは「目が落っこちるかと思った」と手のひらを目元にやって強制的に瞬きをさせた。それからテレビに視線を戻すと、ちょうど敵の最後の攻撃が決まったところで、悲しげな曲に変わった。
「あ、おい、死んじゃったじゃない、どうしてくれるの」
「オレのせいかよ」
あとちょっとでクリアできたのにと照れ隠しに不平で八つ当たりだ。
たぶん、カカシはその言葉が欲しかった。
先生を誘うのに十分な理由をまず自分に納得させたかった。そうでないと踏み出せない。いつまでも迷って、先生に対する好意の分だけ臆病で、勇気が出ない。
コンテニューの画面でコントローラーを放り投げて振り向くと、カカシは下からアスマを覗き込んだ。
「そうゆうあんたはどうやって紅を意識させたのか、まあちょっと教えなさい」
意地悪く笑って、反応を覗う。
「高校のころは付き合ってなかったじゃない。なんで黙ってるのよ」
苦虫を噛み潰した顔でアスマは体を起こしてカカシから距離をとった。
「別に今だってそんなんじゃねえよ。……いいじゃねえか別に、人のことはほっとけ。笑うな」
「あら、アスマってば熊みたいななりして意外に純情なのね、頬染めちゃって」
「うるせーな。てか今日は先生いいのかよ。つか行けよ」
アスマは閉じた雑誌でカカシの頭をはたいて追い出しにかかったが、カカシは動じることなく休みだと飄々と笑った。
「休みでも会いにいきゃあいいじゃねえか。関係ねえだろ」
話の矛先が自分に向かうのが嫌でとにかく食い下がるアスマだ。
「でもさすがに毎日行くのはおかしくない? バイト休みないんかい、いやあるだろ、休みなのにわざわざ来たのか、それは怖いよ、とか思われたらオレ死んじゃう」
「は、ばーか、かわんねえよ。今だって十分怖いだろうが」
「…………。かも。最近オレストーカーの気持ちがわかるんだよね」
カカシは膝を抱えてフローリングの床にのの字を書いた。
結局追い出されたカカシは、それでも学校が終わる時間を見計らって出てくるあたり、帰り道で先生に会えるのを期待している。
先生の家へ続く道と学校へ向かう道とが分かれるところでカカシは立ち止まり、先生の家へ続く道に目を凝らす。後姿でもいいから一目見たいだなんて、いかれてると自分で哂う。
「だってしょうがないでしょ」
思わず声に出して、それでも続く言葉を口にできなくて、一人苦笑する。
「よう、なにがしょうがないんだ?」
突然声をかけられてカカシは飛び跳ねた。振り返った先にいた先生の目にはただ鷹揚に振り向いただけに映ったが、少なくともカカシの心は飛び跳ねた。
期待していたくせに、学校の方からくることを考えていなかったなんて。カカシは少し顔が熱くなった。
「せ、せんせい…」
慌ててポケットから突っ込んでいた手を出してうなじにやる。
「や、なんでもないです。おつかれさまです」
「うん。今日は変なところで会うんだな」
「あ、いや、はい。友だちん家の帰りなんで」
来た道を指差す。
「そうか、まあ気をつけて帰れよ」
先生が「じゃあな」と鞄を持っていないほうの手を上げて帰ろうとするのを、カカシはとっさに呼び止めた。それから心の中で、言い訳をする。
いつか、先生の中で生徒でなくなるときのために、今できるのは、まず先生が先生でなくなるところに誘うことだ。
大人の定義に満たなくても、いざ勝負できる段になったときのために、きっと勝負に勝てるように地均しをしておくのだ。
そう自分を鼓舞する。いつからこんなに回りくどい人間になったのだろう。
「今度の土曜日、空いてませんか」
言って、早口で続ける。
「バイト代入ったんで、いつも世話になってるお礼カタガタ何かご馳走したいんですけど。っていっても大したものじゃないんですけどね!」
一息で言ったカカシを見つめて先生は少しの間の後、口に拳を当てて笑った。
「かたがたって、おまえ」
一言でカカシの頬を赤く染めておいて、ゆったりとした口調で、
「世話なんてしてないしな」
突き落とす。それってもしかしてと思い慌ててカカシが取繕おうとするよりも先に先生は簡単に続けた。
「それにはたけにご馳走されたんじゃ、恥ずかしいだろ」
カカシは目の前が暗くなった。
本当は誘いたい理由なんて簡単で、でも純粋な分だけ断られたら切ない。とてもじゃないが逃げ道がなければやりきれない。
プレゼントが欲しいとか、祝って欲しいとか、そんな贅沢を望んだわけではない。
ただ、少しでも会いたい。それが一番贅沢だったのだろうか。
「おい馬鹿、ちがうちがう」
カカシの様子に気付いた先生は急に慌てて、
「誤解するなよ、断ってるわけじゃないからな。おまえに奢られたんじゃ、オレの立場がないだろ、そんな顔するなよ、悪かったな」
カカシの髪をくしゃりと撫でた。無骨な、そして慰めの優しい手のひらに、自分がこれじゃあ先生の中で生徒を卒業するのなんかとうてい先の長い話じゃないか、とカカシは思った。
「……じゃあ、木の葉駅に11時でもいいですか」
「おう、いいぞ、じゃあ11時な。遅れるなよ」
「……遅れませんよ」
「高校三年間重役出勤だった奴が何言ってやがる」
先生は笑った。それから、カカシの目を覗き込んで、
「大丈夫か、一人で帰れるか」
と心配をした。カカシはそれに、自分はどんな顔をしていたのだろうと恥ずかしくなった。
そして、当日、待ち合わせの場所でいつもとは違うラフな格好の先生を見つけてカカシの心臓は小躍りした。自然、笑みがこぼれる。
「先生」
心底嬉しそうな顔で迎えるカカシに先生ははにかんだように笑った。
「よう。……なんだか、…いや、いい」
気になってカカシが「なんですか」と首を傾げれば、先生は「なんでもない」と取り合わない。カカシは眉を垂れ下げた。
「オレなんか変ですか?」
カカシの情けない顔に先生は「ばか」と笑った。
「そうじゃないよ。はたけはすぐ泣くからなあ」
「うそ、オレ泣きませんよ」
先生はひとりでふふ、と笑ってカカシの頭に手をやる。
「いやいや、はたけはかわいいなあと思ってね」
カカシは少し膨れて視線を横に流した。
「子ども扱いして。いいですけどね、そのうちギャフンと言わせますから」
「ははは、ギャフンてはたけ」
おかしそうに笑って、それから先生はカカシには眩しい笑顔で「どこに行く?」と聞いた。
「何が食いたい?」
「んー、さんまの塩焼きが食べたいです」
「渋い趣味だな。はたけは十八?」
カカシはどきりとする。
「十九です」
いつ、と聞いてくれるかと期待したが、先生はそんな小さなことに拘る男ではなかった。
「酒は無理だなあ。またはたちになったら一緒に飲みに行こうな」
それでもカカシは嬉しかった。先生に深い意味はなくても、それは大人になるまで先生がこうしてなんでもない関係を続ける気があるということだと受け取って、カカシは気分を良くした。
「ふふ、年齢の前に昼間から飲んだんじゃ人格を疑われちゃいますよ。昼を食べた後、まだ見てなかったらジャッキーの映画見ましょうよ。それで帰りに一楽に行ってみたいです」
「お、よく一楽のこと知ってるじゃないか。でもさしあたってはさんまだな。行こう」
先生は穏やかな笑顔で促す。カカシは目を細めて後に続いた。
別に先生がカカシの誕生日など知らなくても、そんなことはどうだっていいことだ。祝ってもらえたらそれは嬉しいことだろうが、祝ってもらえなくても、今日はカカシにとって特別な日だからだ。