その日、いつもと同じ時間に目が覚めると、いつもと同じように黒髪の恋人が背中を向けて眠っていた。ぼんやりとする視界と思考に、まぶたを閉じてまたゆっくりと開けた。身じろぎもしない背中が変らずにあった。
カカシは身体を起こすと、覗き込んで恋人を見た。枕にしみが広がっているのに小さく笑う。
(汚いなぁ、もう。横向いて寝るからよだれが出るんじゃない)
充分に恋人の寝顔を堪能すると、頬にかかる髪を払いのけてキスを落とす。
それから恋人を起こさないようにそっとベッドから出ると、飛び跳ねた頭をかきながら冷蔵庫へ向かった。作り置きの麦茶を出すと昨夜使ったまま片付けていなかったコップに注いで飲んだ。
洗面台で歯ブラシを手に取ろうとしたら隣にある恋人の毛先が広がっているのに気付く。カカシは毛先がなから開くと取り替える。開きすぎるとなんだか気になる。恋人はずぼらなのか、そういうのには頓着しない。
いい加減替えたほうが良いだろう、と思いながら歯を磨いてひげを剃る。顔も洗ってさっぱりするとカカシは一つ大きく息を吐いた。
寝室に戻って着替えると、覆面で顔を覆う前にもう一度恋人にキスをして家を出た。恋人はやはり身じろぎもせずに眠っていた。
日中を思うと大分涼しい朝の湿った空気の中をカカシは慰霊碑へ向かう。
毎日飽きもせずに同じことを考える。
仲間を見捨てようとした自分のこと、仲間を救おうとして命を落とした親友のこと、その親友が残した目のこと、意思のこと、救えなかった仲間のこと、奪った多くの人生のこと、偉大な師匠の教えのこと、父のこと、今の自分のこと。
そうしてひとしきり内省すると日が昇りきらない間にその日の任務をもらいに受け付けに行く。アカデミーの校庭の横を通ったとき、ちょうど恋人が体術の授業で声を張り上げていて、カカシは足を止めた。
カカシは彼のことが好きだが、どこが好きだか分からない。
気付いたときには好きという気持ちだけがいっぱいだったし、両思いになってどうしようもない激しい感情が満たされて気持ちが落ち着くと、一緒にいることが当たり前になった。
だから改めてどこが好きかと聞かれると困る。
ただ、こうして距離を置いて彼のことを見ると素直に格好良いなあ、と思う。
カカシはそれで充分じゃないか、と思うのだ。
生活を共にすると互いに合わないことも多々あった。二十数年全く違った生活をしてきたために習慣の違いや、考え方の違い、些細なことがひどく気に障ったりもしたが、それら全てを認めて受け入れてしまえば彼との生活は良好だった。
共にいて不快ではない人、不快があってもそれを共有できる人は、彼をおいて他にいない。どこが好きか考えると、結局のところ得がたい人である、という結論だ。
子どもたちが喧しくあげる高い声と、ふざける生徒への拳固と怒鳴り声、うまく課題をこなせない生徒への指導、その大らかさは、昇った太陽の光の明るさと暑さの中で極自然に溶け込む。
校舎から安っぽいチャイムが響くと子どもたちは教師の前に整列し、「ありがとうございましたー」と声を合わせると、また喧しく散り散りになった。恋人は二、三の子どもと少し話してから校舎に向かって歩き始めた。
カカシは校庭から校舎へ続く通路の隅で恋人を待った。子どもたちがじゃれあって駆け抜ける。
十メートルほど離れた場所で恋人はカカシに気付き笑った。手を上げて合図するのに、カカシも同じようにして返した。
「これから任務ですか?」
少し遠くから掛けられる声に、恋人が近くまで来るのを待ち、
「ええ」
共に歩き出す。
「イルカ先生はこれから受付?」
「いえ、午前の授業がもう一つ入っているので受付は午後から」
「ちぇ、残念」
恋人は朗らかに笑った。
「ちなみにあがりは五時です」
「間に合うかなぁ」
「だったらもっと早くにきたらいいんですよ」
笑って言う恋人は変らずに朗らかだが、ほんの少し険があるのは気のせいではない。カカシが朝早くから慰霊碑に行くことを恋人は快く思っていない。
一度そのことで大喧嘩をしたことがある。
朝早くから出掛けるくせに遅刻ばかりのカカシを疑問に思った恋人に何しているのかと問い詰められた。別に彼が知る必要のないことであったのでカカシははじめ口を噤んだが、あまりにしつこく食い下がるので吐き捨てるように、突き放すように言った。
「慰霊碑に行くんです。でもそれはあなたに関係ない」
彼は黙った。一瞬泣くかと思ったが彼は泣かなかった。変わりにしばらく口を利かなかった。
そして口を開いたと思ったら彼は、
「確かにそれはあなたの問題で、おれの口を挟むところではないです。でもおれがどう思うかはおれの問題で、おれの自由です」
と言い、射るような視線にカカシは頷いた。
だから恋人はときおり嫌味を言う。そのことに決定を下すのはカカシで、自分が何を言っても結局のところ意味のないことだと知っているから言うのだ。
彼の不満をカカシが知っていることを、彼は知っている。だから言うのだ。
言うのは彼の自由だ。
だからカカシは笑う。
「そうなんですけどね」
そんなカカシに恋人はなんとも言えない顔を向ける。笑っているような、いないような。
そんな話をしながら歩いて、職員室と受付への分かれ道だ。
「じゃあここで。気をつけて」
「ありがとう。先生もがんばってね」
恋人は会ったときのように片手を挙げて背中を向けた。少し見送ってカカシも背を向けた。
任務を終えて再び受付に行ったとき、もう恋人はいなかった。カカシは家路を辿った。
家の前に来ると魚が焼ける食欲をそそるにおいが漂ってきた。カカシは歩を早めて玄関をくぐった。
「ただいま」
「あー、おかえりなさい」
台所の方から聞こえていた鼻歌が止み、少し声をあげて恋人が応えた。
カカシは恋人の方に向かいながら、
「外までいいにおいがしてましたよ、サンマですか」
恋人はそうです、と笑った。それからカカシをふり向いた。
「帰ってくるときいいにおいがしましてね、そしたら食べたくなって」
「いいですねぇ、うまそうだ」
カカシは恋人の頬に軽いキスを落としてから身を翻して寝室に向かった。支給服から部屋着に着替えてまた戻る。
カカシの席に盛り付けられた飯と味噌汁と焼きたてのサンマが並んでいた。ボウルに入ったままのサラダも。
自分の分をよそう恋人をわき目に冷蔵庫を開けるとビールを二缶。
「飲むでしょ」
恋人はもちろん、と笑った。
それから席に着くと二人他愛もない話をしながらの夕食だ。温かい飯をうまいと感じるのが当たり前だった。
夕飯がすむと場所を居間にかえ、恋人はテレビを流してアカデミー生の答案を採点しだした。カカシは夕飯の片づけをした後、同じ部屋で忍具の手入れをした。
つけたテレビのナイター中継は、
「つまらん試合しやがって、ちくしょー」
ご贔屓の球団の負け試合で悪態をつく。
「あんないい球打たんでいつ打つんだ」
見てられないとチャンネルをかえる恋人に、
「手が留守ですよ」
言い置いて風呂に立つ。
風呂からあがってもまだ机と向かい合っている恋人の背中からカカシは覗き込んだ。
「まだやってるの」
「もう終わります。カカシさんいいにおい」
カカシは小さく笑った。恋人の口の端にキスをすると、恋人も小さく笑った。振り返ってキスをくれる。
それから恋人は残りの採点を終わらせると風呂に向かった。カカシは座布団を半分にたたむとそれを枕に愛読書を広げた。テレビの電源を切るとBGMは風呂から響く恋人の歌声だ。
長風呂の恋人がようやく上がって、しばらく二人だらけて過ごすと時間はあっという間に遅くなる。
「おれ明日早いんですよ」
と、寝る支度を始める恋人についてカカシも洗面台へ向かう。
恋人が歯ブラシを取ると思い出してカカシは言った。
「替えないんですか、それ。広がってますよ」
「まだ使えますよ」
「いい加減それ替えてたほうがいいと思うんですけど」
「そうですかね」
「そうですよ」
じゃあそうしようか、と恋人が洗面台の下についている棚を開けて、
「買い置きありましたっけ」
新しいブラシを探すのに、カカシは、
「あ、おれ買って来ましたよ」
待ってて、と部屋へ取りに向かった。取って戻ると、
「ありがとう」
恋人はカカシの買ってきた歯ブラシを受け取った。
歯を磨き終えて寝床へ向かう恋人の後ろからカカシは近寄って、
「それじゃあイチャパラしましょうか」
尻をつかんだカカシの右手は恋人の険しい視線と手によってのけられた。
「何言ってんですか。しませんよ」
「けちー。最近ずっとご無沙汰じゃない。夜はこれから、健康な若い男子がそんなんでいいんですか」
「今日はダメです」
「あんたその年でもう枯れてんですか」
「失敬な。ンなこと言ったってしないもんはしません。明日早いって言ったじゃないですか」
にべもない恋人にカカシはうなだれた。そんなカカシをかわいそうに思ったのか恋人は優しくカカシの名を呼ぶと、自分の腕に引き寄せてベッドに転がった。
平たい胸に頭を抱きしめられる形になった。
カカシは悔しかったので不平不満を並べ立てた。
「先生かたい」
「足はみ出てる」
「息苦しい」
そんな中途半端なことしないでくれよ、とカカシは不貞腐れたが、恋人はちょっと身を離してカカシの額に唇を落とすと、また抱きしめた。
「がまんがまん。ほらほら、もう寝ますよ」
思い切り子ども扱いに、カカシは口を尖らした。
「先生あつい。ばか」
最後の抵抗は柔らかく髪を梳かれてむなしく終わる。
夏の盛りからしてみれば大分涼しくなったとはいえ、まだまだ暑さの残る九月半ば。
(あつくて寝るどころじゃないよ)
と思ったが、恋人の体温は気持ちがよくて、カカシは恋人の腰に腕を回した。
抱え込まれた胸から規則的な鼓動が聞こえて、その日は、いつも背を向けて眠る男の腕の中ですぐに眠った。